西澤卓美さんの背中──在俗信徒として

テーラワーダ仏教を応援していますという YouTube チャンネルがあり、そこの西澤卓美さんの ZOOM 法話を一通り視聴させていただいた。

これまで、スマナサーラ長老の数々の動画を浴びるように聞いていた流れもあり、どうしても、スマナサーラ長老の、邪見や妄想をバッサバッサ斬り捨てるような切れ味鋭い法話と比較して、質疑応答などに素人っぽさを感じてしまい、当初は物足りなさを感じざるをえなかった。

しかしよく考えてみれば、僕の稚拙な “法の推知” の真似事的な妄想として、スマナサーラ長老は阿羅漢かどうかというラインについていつも考えさせられざるをえないのに比して、西澤さんは、還俗されていることからも明らかに、阿羅漢という選択肢は失せる。つまり、預流者なのかどうか、というラインが問題になるべきなのである。スマナサーラ長老の徳との「比で」西澤さんの徳の「有無」を考えようとするべきではない。

僕は、先日、テーラワーダ仏教徒の友人に、ふと、「西澤さんのような在俗信徒が増えることが、今後の日本のテーラワーダ仏教にとっての、希望じゃないのか」と何気なくコメントしたのを思い出した。


僕は、昔、ゴータミー精舎にちょくちょく顔を出していた時期に、一度だけ、西澤さん(当時はコーサッラ=西澤長老)にお会いしたことがある。西澤さんも関係の深い、ウィセッタ・セヤドーの関係で、何か少し言葉を交した気がする。普段はゴータミー精舎で見たことのない顔の人々が、しかし大変熱心そうな人々(男性中心だった)が、西澤さんのアビダンマ講義を聞くために集まっていた憶えがある。袈裟に身を包んだ西澤さんは小柄で、小柄であること以上に非常に痩身で、大変真摯な修行者というイメージだった。


西澤さんの動画を何度か聞くうちに、興味本位で、西澤さんの悟りのレベルに関する噂話がないかと思い、検索してみると、とあるブログ記事に行きついた。西澤さんの著書『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』(サンガ、2014-11-01)に因んだ記事であった。そこでは、

サンガ出版の「ミャンマーのマインドフルネス」という本の中で、著者の西澤卓美師(元ウコッサラ長老)は、自分は悟っていないと受け取れるような告白をなさっている。

という気になるコメントを見つけたので、早速、同書を地元の図書館で探すと市内の別の図書館に所蔵があったので、予約して速やかに借りることができた。

安居 10 回であなたも長老

私が日本に帰ってきたときすでに出家して 10 年経っていたので、何のきっかけかよく憶えていませんが帰国後途中から長老と呼ばれだしました。安居を 10 回過ごすと長老と呼ばれます。1 年に 1 回、安居がありますので、10 年で長老です。「長老」という肩書はなぜか日本において相当の威力を発揮するようで「まだお若いのに、しかも日本人でありながら長老になったなんてすごいですね」とよく言われました。また「長老というのは悟ったお坊さんにつけられる称号ですか」とも言われました。もしそのときもっともらしく黙っていたら「あのお坊さんは悟っているに違いない」と勘違いされて超絶人気になっていたかもしれませんが、私は真面目なのでそういうことはしませんでした。もちろん「自分は悟っている」と匂わせるのは戒律違反になります。

西澤卓美『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』(サンガ、2014-11-01)p139

ブログ主のコメントはこの部分に基いたものではないかと思われる。その前提で考えると、「私は真面目なのでそういうことはしませんでした」というのを、西澤さんが「私(西澤)は悟っていません」と自分の境地について告白したと解しているのだと思う。しかし、僕はここは、質問者の誤解を放置せず、「長老=悟った人という意味ではないですよ」という一般論を教えて誤解を解きました、という主旨の話ではないかと思うのである。西澤さん個人の境地について告白云々したという話ではないと思う。


僕は、先日、テーラワーダ仏教徒の友人に、西澤さんの説法・質疑応答が(スマナサーラ長老のそれに比して)「正直、素人っぽさが否めないよね」と感想を漏らす一方、なぜか先述のように、「西澤さんのような在俗信徒が増えることが、今後の日本のテーラワーダ仏教にとっての、希望じゃないのか」とも言ったのである。日本人という、同じ素地から出発した人々として、西澤さんこそ、日本人テーラワーダ仏教徒の鑑と言えるのではないのか?

スマナサーラ長老の類稀なる説法力は、単に長老個人の阿羅漢かと思わせる境地だけによるものではないと思う。僕個人は、スマナサーラ長老の説法という言語化された情報そのものよりも、その話しぶり、物事の切り取りぶりに垣間見る、背景にある長老の阿羅漢ではないのかと思わせる部分にこそ興味があるのであるが、それは別として、長老は元々学者としても超一流の頭脳の持ち主である。阿羅漢でも、色々な個性があると思うので、説法は下手でほとんど無口で、森の僧院に隠れてひっそりと瞑想指導されているような方もいるだろう。だから、スマナサーラ長老の説法力そのものは、阿羅漢かどうかという問題ではなく、長老の個人的資質によるものが大きいと思う。

一方、初見で西澤さんの説法を視聴したとき、話される内容(情報)だけを取り上げると、経典の註釈にあるエピソードなど、僕でも知っている話題だったりと、特段の“凄み”を感じさせられないものだった。しかし、何であろう。西澤さんの、この、人柄は──。あまりにも、飾らず、素朴で、謙虚で……。

西澤さんを、在俗信徒の鑑ではないかと、何気なく評した自分の言葉を、改めて検証してみようと思ったのである。阿羅漢ではないことははっきりしているとしても、少なくとも預流果には達した聖者ではないのか、と仮定してみたら──。

そんなわけで、西澤さんの預流果の可能性を検証しようと、まずは『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』を借りて、自分でも読んでみることにしたのである。何らかのヒントになるものが見つかるかもしれないと。


『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』は、全体としては、ミャンマーの仏教カルチャーについての“観光ガイド”的な趣きのものである。特に何か深い話があるわけではない。そんな中、僕は、最終章の(西澤さん自身の)還俗についての話に注目した。

還俗の気持ちを伝えるのは難しく誤解されるのでなるべく話すのは避けてきました。根本的なお釈迦様の教えに対する信は今も変わりませんが、自分にとって輪廻の存在自体が重要な問題ではなくなってしまいました。

出家するときに「輪廻の苦しみから逃れるためにこの衣を受け取り、憐れみを垂れて出家させてください」と和尚に願って出家します。しかし今自分が求めているのは輪廻の苦しみから逃れることよりも、あらゆる固定観念から自由になり無我を体験して今幸せに、今自由になることだと思っています。

西澤卓美『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』(サンガ、2014-11-01)p279

西澤さんは、長年の出家生活によって、自我が弱くなった結果、還俗したのではないだろうか。

そもそも西澤さんは、クリシュナムルティなどのスピリチュアリズムに影響され、子供の頃から出家の夢を抱くようになっていたのだそうである。それ(スピリチュアリズム趣味)は明らかに、日本の外道 OS 的な邪見によって形成された、自我が抱かせた、一つの典型的な「私は悟った人間になりたい」パターンだったのではないかと思われる。その延長上にあったのが、出家に至り、長老比丘になるまでに至った西澤さんの歩みであった。

しかし、動機は自我によるものであったとしても、西澤さんの修行生活は、嘘偽りのないものであったのだろうと思う。もちろん、今世での阿羅漢果をあくまでも目標にするならば、還俗は、修行の後退である。しかし、僕には、西澤さんが、テーラワーダ仏教徒として、仏弟子として、退行されているようには感じられないのである。むしろ、修行が進んだ結果、自我が弱まった結果、還俗されたのではないだろうか?

別のところで、既に述べた通り、僕のテーラワーダ仏教との邂逅は、ちょっと変っている。全く信心深くなく、日本の大乗仏教の葬式文化の中で、宗教を歯牙にかけることもなく育った。一方で、スピリチュアリズムにハマるようなムー族系の人たちのことも、バカにしている側の理系人間であった。地下鉄サリン事件前のマスメディアのオウム真理教ブーム(とそれを面白がる世間の人々の側)も馬鹿にしまくっており、地下鉄サリン事件が起った時、その数日前に、オウムが警察に捜査された件と直勘的に結びついて、真っ先にあれはオウムがやったに違いないと周囲に引かれながらも断言的に力説したりした。そのくらいだから、自分で瞑想修行をやって、自分自身が悟るとか、そういう発想には全く興味がなかった。──ただ、十数年前、本物の比丘の方々を間近に見るようになって、衝撃を受け、一在俗信徒として、ちょっとでも功徳を積みたいと思うようになっただけである。

なので、逆に言えば、「自分が自分が」で、修行して、軽々しく、聖者だとか、悟った人間になりたがる人達の方を、「ちょっと怪しいんじゃないの」と思いたくなるのが、元来の僕の習性である。

僕が初めて西澤さんのことを知って、お会いした時は、既に長老比丘として長年の修行を経てミャンマーから帰国された後だったので、その時は、西澤さんという個人というよりも、本物のテーラワーダ仏教の比丘として礼拝する対象としてしか見ることができなかった。

しかし、今、本に書かれた、西澤さん個人の来歴データだけをピックアップしてみると、出家の動機は典型的な「自分が自分が」タイプに、僕流のカテゴリー分類上は宛てはまることになる。

だとしたら、その延長で至った長老比丘としての、西澤さんは、一方で内面的には、自我がどんどん落ちて行った先に、外面的な比丘であるというペルソナよりも、内面の修行を優先されるようになったのだ。もし、西澤さんがミャンマー人として生まれ育ったのであれば、事情は違った(比丘を続けられていた)かもしれないが、日本では、比丘としての戒律を守りつつ、修行生活を続けるのは、西澤さんにとっては義務による負担も大きかったのではないか。

むしろ、比丘という立場を離れて(袈裟を脱ぎ)、在家信徒という一個人信者に戻ったからこそ、西澤さん個人のありようが、100% 剥き出しになるわけである。「今自分が求めているのは輪廻の苦しみから逃れることよりも、あらゆる固定観念から自由になり無我を体験して今幸せに、今自由になることだと思っています」という言葉が、西澤さんの自我の削減が、確実に、凡俗からは一段抜けた境地にあることを、物語っているとは思えないだろうか。

西澤さんの、説法だとか、著書に書かれた文章だとかいう、西澤さん個人から出てきて切り離された情報の優劣ではなく、西澤さんの人柄はどうだろうか。物凄く自我が薄い感じはしないだろうか。だから、我々の凡俗センサーにとっては、逆に、迫力がない、素人っぽい、地味だ、威厳がない、という評価になるほどの、それは。

凡俗は、本当に愚鈍だから、しょうもない、外見的な部分でしか判断できないのである。仏典でも、チューラパンタカ尊者など、年少の沙弥の阿羅漢が在俗信徒から看過されたりするエピソードがある。凡愚は基本が「有るもの」ベースの判断思考になってしまう。しかし本当は「無いもの」ベースの判断をするべきだったのだ。


──所詮は、僕というまた一人の凡俗の、しょうもない“法の推知”遊びである。実際のところは、それぞれの人の、その人なりの「信」なり、“法の推知”なりを通じて、判断してもらう他ない。

西澤さんを、預流果(以上の)聖者であると考えて、尊敬の念を抱いて思いを馳せてみる。僕の場合は、少なくとも、その思いに伴なって、歓喜が生ずる。

預流果以上の聖者には、凡俗とは、供養する価値の上で、超え難いギャップがある。


西澤さんが、比丘を辞めて、還俗されたことについて、残念だと思う人もいるだろう。しかし、僕は、この、外道邪見 OS プリインストールである我々日本人にとっては、在俗信徒で十分なので、預流果以上の聖者が実際に確実に輩出されていくことこそが、極めて重要だと考えている。

中部経典に、ヴァッチャゴッタという外道の修行者が仏陀に親近し、邪見を減らしつつ帰依し、最終的には出家して、三明六神通を得た大阿羅漢となるという、僕にとっては非常に感動的な 3 連シリーズの経典群がある(71 三明ヴァッチャ、72 火ヴァッチャ、73 大ヴァッチャ)。

我々日本人は、宗教 OS 的には、ヴァッチャゴッタ同様の邪見に染まった外道の状態から出発しているようなものなのである。

大ヴァッチャ経において、ヴァッチャゴッタは、釈尊の教説に対する確定的な信を明らかにし、出家を望み、認められることになる。ヴァッチャゴッタの信の告白は、圧倒的である。

ゴータマ尊よ、もしこの法をゴータマ尊が成就され、(……)在家者・白衣者・梵行者である男性信者たちが成就しないのであれば、そのようにこの梵行はその点で不完全なものになります。しかし、ゴータマ尊よ、この法をゴータマ尊が成就され、比丘たちも成就し、比丘尼たちも成就し、在家者・白衣者・梵行者である男性信者たちも成就していますから、そのようにこの梵行はその点で完全なものです。

片山一良・訳『中部 中分五十経篇 I』(大蔵出版、1999-06-10)

ヴァッチャゴッタは、単に仏陀その人が最高の境地に達した人であるという理由だけでは(彼が一信者であるには十分かもしれないが)、不完全(彼が自ら出家する理由としては不十分)であると言う。仏陀の弟子である、出家比丘・比丘尼や在俗信徒の男女が、現に、預流果以上の聖者として、生き証人としてどんどん結果を出している。その事実(聖者サンガの背中)を見て、これは実践に足る勝れた教えであると、教えとして完全なものなのであると、彼の浄心を見事に示す表明をし、釈尊に出家を願い出るのである。

そのように、西澤さんのような仏教徒の存在感が、増え広まっていくことが、日本のテーラワーダ仏教にとっての希望だと思われるのである。

指導者層としての比丘の方々は、これまで通り国外から比丘をお招きして、指導していただくという状況が続いても問題はないと思う。日本人の比丘が増えるかどうかではなく、在家を中心とする信者層の側に、本物の聖者サンガが日本に根付くことの方が重要だと思う。

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