清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』

清水俊史さんという仏教学者(佛教大学出身)が、東大教授(花園大学卒→東大編入 or 再入学?)の馬場紀寿氏と論争の末、アカハラ被害に遭い、さらには出版妨害に遭った(参考:日本テーラワーダ仏教教会 事務局長 佐藤哲朗さんの YouTube 動画)という、問題作であるこの本を読んだ。

佐藤さんが紹介している Amazon の書評リンクにもある通り、この清水さんの本は、馬場氏の(今の東大教授としての地位へとつながる博士論文を母体とした)デビュー作『上座部仏教の思想形成――ブッダからブッダゴーサへ』の内容を完全否定するものである。

主に、清水さんの本の 3 部構成のうちの第 1 部がそれ(馬場説の完全否定劇)に該当する。

総括

第 1 部では、ブッダゴーサやダンマパーラに帰せられる著作群を主な材料として、小部の成立を軸とした三蔵の形成過程を考察した。以上をまとめれば、仏滅後からブッダゴーサを経てダンマパーラに至るまでに、三蔵は次のような段階を経て成立したと推定される。

  1. 仏滅後に残された様々な教えは、仏弟子たちによって、その内容に応じて律蔵と『長部』『中部』『相応部』『増支部』という経蔵四部とに収められ、僧団内にいる長部誦者や持律師と呼ばれる専門家たちがこれを伝承していった。この律蔵・四部から漏れた様々な種類の経典(主に偈頌経典)は、他の四部に比してより在家的・通俗的な蔵外文献として伝承され、『ジャータカ』と『ダンマパダ』の例外を除いて専門の誦者や伝持者は僧団内に存在しなかった。
  2. これら四部の外側に累積していった蔵外文献(主に偈頌経典)は、 後に経蔵の第五部「小部」として三蔵内に組み込まれるが、経蔵が五部に再編成された後も小部の構成は固定的ではなく流動的であった。そのため、小部のうちには、成立が早いとされる『スッタニパータ』『ダンマパダ』といった韻文経典のみならず、成立が遅いと考えられ る『義釈』『無礙解道』といった教理書も収められている。このような編纂事情ゆえに、上座部における小部の伝持形態は、「小部」というーまとまりのセットで伝持するという意識が希薄であり、各々の文献単位で別個に伝持されていった。
  3. また、小部の成立だけでなく、阿毘達磨蔵七書と律蔵附随の成立も遅いことが考えられるが、これら小部・阿毘達磨蔵・律蔵附随の成立の具体的な先後関係は不明である。五世紀初頭にブッダゴーサが登場した時には、律蔵(経分別・犍度部・附随)、経蔵(五部)、阿毘達磨蔵(七書)という現行の三蔵の大枠が成立していたが、小部の構成をめぐっていくつかの見解が併存している状況であったと考えられる。
  4. ブッダゴーサが著した四部註を検討すると、その段階では、『ダンマパダ』『ウダーナ』『イティヴッタカ』『スッタニパータ』『天宮事』『餓鬼事』『長老偈』『長老尼偈』『ジャータカ』『義釈』『無礙解道』という 11 書が、小部の構成要素として広く認知されていたと考えられる。残る『アパダーナ』『ブッダヴァンサ』『チャリヤーピタカ』『クッダカパータ』の 4 書が、小部の構成要素として認められるかどうかは諸資料の間で一致していない。
  5. このように、小部の内容が定まらない中にあって、ブッダゴーサが『長部註』の「仏語の分類」において 15 書すべてを小部に含めて記述したことは、後の上座部にとって重要な指針となった。だが、ブッダゴーサは小部を 15 書に限定しようと明確な意図を持っていたわけではない。ブッダゴーサの著作のうちでは、本来ならば小部すべてが列挙されなければならない箇所であっても、「第一結集記事」では 14 書(『クッダカパータ』を除く)や 11 書(さらに『ブッダヴァンサ』『チャリヤーピタカ』『アパダーナ』を除く)しか言及されず、「四大教法註」では 12 書(『ブッダヴァンサ』『チャリヤーピタカ』『クッダカパータ』を除く)しか言及されていないなど、小部の構成について齟齬が残されたままである。
  6. ブッダゴーサより後に成立したダンマパーラの著作においては小部の構成について、11 書と 12 書説は淘汰されているものの、14 書と 15 書との両説は併存したまま残されている。また、ビルマ仏教の伝統では、この 15 書に『導論』や『蔵釈』を加えるなど、小部の範囲を拡大させようとする動きが確認される。したがって、上座部における小部の構成は、強制力をもって確定されてはいなかった。

以上、小部の構成について、ブッダゴーサの著作のうちには「11 書」「12 書」「14 書」「15 書」などの諸説が確認され齟齬が残されたままであることは、ブッダゴーサが小部の構成について確固たる独自思想を有していなかったことを示している。加えて、復註を著したダンマパーラはこれら諸説のうち「12 書→ 14 書」「11 書→ 14 書」に修正する解釈を施しており、ダンマパーラの時代においても「15 書」「14 書」の両説が併存している。このような範囲の不統一から、ブッダゴーサが提示した「小部= 15 書」の 構成は、上座部にとって標準説ではあったが、決して強制力を持った定義ではなかったと考えられる。このように、ブッダゴーサによって定義された三蔵(とりわけ小部)は、完全に閉ざされたものではなく、外延に微妙な揺らぎが許容されている。だからこそ、上座部註釈家は三蔵に含まれない外典の伝承を引用して自説を補ったり、ダンマパーラは『導論』をパーリと呼んで註釈を著したりできたのであろう。これは、上座部が三蔵の外側にも “仏陀の所説” を収めた外典が存在すると認めていることや、ビルマ仏教における小部の拡大からも確認される。

このように、ブッダゴーサが果たした「小部」への役割は、自らの意志に基づいて三蔵の構成範囲を画定しようとした「思想家」としてのものではなく、上座部に受け継がれてきた三蔵にまつわる種々の伝承をまとめ上げた「註釈家」 としてのものであると結論づけられる。

清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p124-126

乱暴に表現してしまえば、馬場説というのは、大乗仏教を援護射撃するために、上座部仏教の正統性にダメージを与えることにあった。彼の説には、上座部仏教の歴史的人物としての釈尊からの伝来の経典群を保持する上座部に対し、それがあたかもブッダゴーサ宗(まるで、日蓮宗や浄土真宗のような)であるかのように心象操作する狙いがあった。

ところが、清水説によって、学術的にもそれが徹底的に論破されてしまった。上座部のパーリ三蔵のありようは、ブッダゴーサの個人的な思想を反映した独創的な改変と言えるほどのものはなく、結局ブッダゴーサの仕事は註釈者としての範疇に留まると結論づけられてしまった。


そんなわけで、馬場説の投げかけた波紋が綺麗さっぱりと解消された。一方、別件で、清水さんの本を読んでいくつか興味深いポイントがあったので、以下にスクラップ。

まずここで、5 世紀にブッダゴーサによって提示された三蔵(律蔵・経蔵・阿毘達磨蔵)の構成を示しておこう。

律蔵経蔵阿毘達磨蔵
四部小部
①経分別
②犍度部
③附随
①長部
②中部
③相応部
④増支部
①クッダカパーダ
②ダンマパダ
③ウダーナ
④イティヴッタカ
⑤スッタニパータ
⑥天宮事
⑦餓鬼事
⑧長老偈
⑨長老尼偈
⑩ジャータカ
⑪義釈
⑫無礙解道
⑬アパダーナ
⑭ブッダヴァンサ
⑮チャリヤーピタカ
①法集論
②分別論
③界論
④人施設論
⑤論事
⑥双論
⑦発趣論
清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p18

パーリ聖典の成立過程に関する仏教学者の研究史が(清水さんの主な対論相手である馬場紀寿氏を含めて)まとめられている。

パーリ聖典の成立過程に関する研究は、近代仏教学の幕開けとともに始まったと言ってよい。

(……)

しかしながら、以上の諸成果については異論も多く、パーリ聖典全体の 成立事情について定説があるとは言いがたい状況にある。このような状況の中でも、多くの研究者が前提として受け入れている成果は次の 4 点にまとめられよう。

  1. 経蔵のうち「小部」には新古様々な諸経論が収載されるが、範疇としての「小部」の成立は四部より遅れる。
  2. 経蔵のうち『増支部』の部派間での不一致は『長部』『中部』『相応部』よりも顕著なため、『増支部』には比較的新しい教説が多く含まれている。
  3. 律蔵については「附随」の成立が遅れる。
  4. 阿毘達磨蔵に収載される文献は部派間で全く異なる上、各々の部派特有の教理体系が説かれるため、その成立は経蔵(四部)・律蔵よりも、おそらく遅れる。

ただしこれら 4 点の前後関係、たとえば、律蔵附随と阿毘達磨蔵の成立の前後関係などについては未だ定説を欠いている。

清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p32-33

ここで、自分的に、一番興味を引いたのは、中村元に代表される韻文優先説とその評価についてである。

第 1 節 韻文に対する 2 つの資料論

まず本節では、韻文経典に対する 2 つの資料論を概観し、散文と韻文の対立性に関する諸研究の理解を明らかにする。

第 1 項 韻文優先説

パーリ三蔵の小部に含まれる韻文経典は、仏教研究の中で最も注目を浴び続けている資料の一つである。とりわけ初期仏教(アショーカ王以前の仏教)研究という点からは、散文経典よりも韻文経典が先に成立したという資料論が提示され、より古い仏教の原初形態を考察する上で韻文経典が特に注目された。つまり「韻文優先説」である。このような資料論が提示されたのは、近代仏教学の開始とほぼ同時期である。たとえば V. Fausbøll は、 1881 年に刊行した『スッタニパータ』の英訳本と、1885 年に刊行したその校定本との序文において、『スッタニパータ』の第 3・4・5 章が極めて古く、原始仏教(Primitive Buddhism)の痕跡を含んでいると述べている。その後もこの韻文優先説は、T. W. Rhys Davids や J. E. Carpenter などの西洋の学者たちによって支持され、日本においては宇井伯寿や中村元がこれを継承した。特にこの韻文優先説の立場から学界に重大な影響を与えたのは、中村元による一連の初期仏教(原始仏教)研究である。

中村元は、1971 年に刊行した 『中村元選集』第 14 巻(1992 年刊行の『中村元選集[決定版]』第 14 巻にも増補再録)において、1)『スッタニパータ』と『相応部』有偈篇はアショーカ王以前のものであること、2)その中でも。『スッタニパータ』第 4・5 章が古い形を保っていること、3)初期経典(五部四阿含)に含められる韻文の大部分がアショーカ王以前のものであろうこと、4)初期経典(五部四阿含)に含められる散文の大部分がアショーカ王以後のものであろうこと、の 4 点を結論し、この韻文優先説に基づいて得られた初期仏教(原始仏教)の有り様を次のように描き出した。

古い詩句に説かれている仏教は、一般の仏教学界で説かれていた原始仏教とはかなり異なるものである。

  1. いわゆる仏教語とか仏教独特の術語というものはほとんど見当らない。
  2. いわゆる教義なるものはほとんと説かれず、むしろ懐疑論的な立場に似たものが表明されている。
  3. 仏教的なニュアンスが少なくて、むしろアージーヴィカ教やジャイナ教を思わせる文句が少なくない。

なおこれは他の書の中で論じたことであるが、

  1. 修行僧は森や洞窟などのなかにひとり住んでいた。また共同の修行者と一緒に住んでいた者もいたが、しかしいわゆる寺院(精舎)における共同生活はほとんど見られない。
  2. 最初期の仏教の修行者の生活は、後代の僧院の修行僧(ビク)のそれとはかなり異なり、むしろ叙事詩に現われる仙人のそれに近い。
  3. 最初期には尼僧は存在しなかった。
  4. 戒律の箇条の体系はまだ成立していない。
  5. 開祖釈尊はすぐれた人間として仰がれ、神格化が徐々に起こりつつあった。

この結論を受け入れるならば、これまで仏教の基本教理であると信じられてきた五蘊・十二処・十八界、十二支縁起、八聖道、四諦といった諸説のみならず、パーリ律蔵「大品」や「大般涅槃経」などに残された仏伝の断片までもその大部分が、史的仏陀にまで遡り得ない、後代の創作ということになってしまう。

以上の中村元による資料論とその結論は、学界に賛否両論を巻き起こした。これに異を唱えた三枝充悳は、韻文だけをもとにして「初期仏教→最初期の仏教→史的仏陀」と遡って考究していくと、史的仏陀が後の仏教に遺したオリジナリティが殆ど無くなってしまい、どうして多くの人々が仏陀に帰依して仏弟子となっていったのかが全く解らなくなってしまうと指摘している。ただし三枝充悳は、韻文優先説の問題点について、大部分の韻文が古いことは認められても、韻文と同じくらい古い散文も存在するはずであると指摘するに留まっており、散文資料の新古を測る客観的基準については具体的に示すことができないと述べている。なお、三枝充悳によって提示された。韻文と同程度に古い散文も存在する可能性については、韻文優先説を強く唱えた中村元も認めるところであり、必ずしも韻文優先説に対する有効な反論ではない。なぜなら、散文中に古い記述が残されていたとしても、それを抽出する客観的基準が存在しない以上、成立が古いと周知されている韻文に基づいて最初期の仏教を考究すること以外に具体的な研究方法を見出せないからである。

これを受けて韻文優先説を引き継ぐ形で、韻文から散文への思想展開を意識しながら、場合によっては韻文経典の新古をも厳密に区分けして仏教思想の源流を考究する試みが現れた。荒牧典俊、並川孝儀、中谷英明、山崎守一らによる一連の研究がその代表である。この中で荒牧典俊[1983]や並川孝儀[2005]は、韻文を最古層・古層・新層の 3 つに分ける資料論を提示し、最古と古層の間においても思想的差異があることを指摘している。中谷英明[2003]は、パーリ聖典の成立をさらに細かく 3 層 5 部に分け、 同じくそこに思想的な展開・断絶を見出している。山崎守一[2010][2018]は、仏教の韻文資料をジャイナ教文献などと比較しながら、沙門宗教の共通基盤と仏教の特殊性とを考究している。

このような韻文優先説に基づく研究は、韻文から最文への展開を想定しながら、散文と韻文の間のみならず、韻文と韻文の間においてさえも新古層で思想的隔絶があることを指摘した。

第 2 項 別系統説

文献学的手法に基づく近代仏教学の開始とともに提唱された「韻文優先説」は、中村元による包括的研究を経て、全く新しい史的仏陀像・初期仏教観を提示した。しかし、韻文優先説に問題がないわけではない。韻文優先説は韻文から散文への思想展開を前提とするが、両者の記述はあまりに隔絶しているため、この思想展開を合理的に説明することが困難である。松本史朗[2004: p. 23.19]が指摘するように、端的な表現を用いるならば、韻文に基づいて構想された「最初期の仏教」なるものは、もはや仏教ではないのである。

この韻文と散文との間にある齟齬を合理的に解消し、そして韻文優先説への有力な反証となる資料論が、村上真完や de Jong、櫻部建、松本史朗、馬場紀寿らによって提示されている。すなわち、韻文と散文の叙述内容と聖典伝承の違いに着目した、「韻文が仏教の主伝統とは別の系統に属するものであり、その伝承形態も散文を主とする他の四部とは異なっていた」という「別系統説」である。de Jong[1994][2000]によれば、散文経典は仏教の主伝統を引き継ぐものであるが、韻文経典は仏教以前・非仏教的・仏教的の 3 種の要素が併存するものと指摘される。櫻部建[2002]は、散文経典が出家 僧団内において師仏の教えとして伝持されてきたものであり、韻文経典は在家・出家に通ずる初期仏教社会に広く流通し愛唱されていたものであると述べている。また、村上真完[1980]、松本史朗[2004: pp. 1-54]も、韻文と散文との間にある思想的差異に着目し、韻文経典が沙門文学や苦行者文学(ジャイナ聖典)の流れにあり、仏教の真髄および独自性は散文経典の中にこそ見られる点を主張している。馬場紀寿[2008: p. 178.7-14]は、上座部における小部の成立が四部より遅れることに着目して、韻文(小部)と散文(四部)が異なる伝承形態であったことを指摘している。

すなわち、これら諸論を総括すれば、「散文こそが仏教の正統であり、韻文はその傍系に過ぎなかった」ということであり、換言すれば、「たとえ韻文経典の起源が古いにしても、それは純仏教的なものではなく、少なくとも当初の仏教教団はそれを重要視していなかった」ということになる。したがって、この資料論に基づくならば、韻文経典に比重を置いて仏教の原初形態を考究する「韻文優先説」の立場は、その妥当性を著しく失うことになる。

第 2 節 仏典における韻文と散文の立場

続いて、先行研究の成果を頼りに、諸経論に説かれる韻文と散文の立ち位置について考察する。前節において取り上げたように、韻文と散文の伝承形態の違いに着目する「別系統説」は、「韻文優先説」の妥当性に異議を唱える。すなわち、韻文と散文の間にある思想的断絶は、単純に成立順序や思想展開に還元できるものではなく、むしろ両者が異なる起源を持ち、系統を別にして伝持されてきた結果を示しているというものである。この「別系統説」の萌芽となる研究は、必ずしも「韻文優先説」に対抗して始まったわけではない。韻文が散文に比して異なる扱いを受けていた事例は、古くから指摘されている。

たとえば M. Winternitz は、詩的作品が流行ることで正法が廃れてしまうことを危惧する初期経典の記述に着目して、当初の仏教教団では韻文経典に「聖典」としての権威が十分には認められていなかったと指摘している。同様に J. Filliozat も、文学風や詩の流儀に仏語を適応させると、その聖典の価値を失う恐れがあったと指摘している。村上真完も、韻文の愛好を戒めたり、教えの韻文化を禁じたりする仏典の記述に注視して、散文経典の中にも古い伝承が含まれることを主張している。このような、韻文の流行によって正法が衰えるという記述や、仏陀の教えを韻文に改めることを禁じる記述は、当初の仏教教団にとって散文こそが正統であり、韻文は傍系に過ぎなかったことを強く示唆している。

韻文が傍流に過ぎなかった事実は、別の角度からも確認することができる。たとえば大衆部の『摩訶僧祇律』では、もし布薩の場に賊が侵入して来たならば、彼に比丘法が知られないようにするため戒本の合誦を中断して、代わりに『波羅延』(Pārāyana、上座部『スッタニパータ』第 5 章「パーラーヤナ篇」に相当)、『八跋耆経』(Aṣṭavargīyasūtra、上座部『スッタニパータ』第 4 章「アッタカ篇」に相当)、『牟尼偈』(Munigāthā)、『法句経』(Dharmapada、上座部『ダンマパダ』に相当)を唱えるべきであると説かれている。すなわち大衆部において、これら韻文経典は比丘法から離れた通俗的なものと見なされている。

これと同じ理解は、後代の上座部註釈文献においても確認される。パーリ律波逸提法第 4 条〈未受具戒人同誦戒〉への註釈によれば、比丘は未具足戒者と法(三蔵などの教法)を同誦してはならないが、例外的に偈頌や詩句に結ばれたものであればそれを同誦してもよいと説明されている。上座部においては、韻文も散文と同様に「法」であることは認められていても、散文はより出家的であるのに対し、韻文はより通俗的なものと理解されている。

第 3 節 沙門宗教間における韻文の共有性

前節において、散文が出家的であるのに対して、韻文は通俗的なものと見なされている点を指摘した。ところで、de Jong[1994][2000]や櫻部建[2002]などの指摘によれば、韻文経典は仏教的要素のみならず、仏教以前や非仏教的な要素までも含み、初期仏教社会において在家・出家を問わず広く流通し愛唱されていたものとされる。この指摘の妥当性を裏づける興味深い記述が初期経典のうちに残されている。

『中部』第 75 経「マーガンディヤ経」(漢訳:『中阿含』第 153 経「鬚閑提経」)では、4 句からなる偈頌を世尊から聞いた遍歴行者マーガンディヤが、その 4 句のうち前半 2 句を遍歴行の師から既に聞いたことがあると声を上げる。

MN. 75 (Vol. I, pp. 508.28-509.5):

atha kho bhagavā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi --

“ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ;
aṭṭhaṅigiko ca maggānaṃ, khemaṃ amatagāminan” ti.

evaṃ vutte, māgaṇḍiyo paribbājako bhagavantaṃ etad avoca “acchariyaṃ, bho gotama, abbhutaṃ, bho gotama. yāva subhāsitaṃ c' idaṃ bhotā gotamena -- ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhan ti. mayā pi kho etaṃ, bho gotama, sutaṃ pubbakānaṃ paribbājakānaṃ ācariyapācariyānaṃ bhāsamānānaṃ -- ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhan ti; tayidaṃ, bho gotama, sametī” ti.

そこで世尊は、その時に次の感興の言葉を唱えた。

「無病は最高の利得である。涅槃は最高の安楽である。
そして不死へ至る道の中で、八支は安穏である」と。

このように説かれたとき、マーガンディヤ遍歴行者は、世尊に次のように言った。「友ゴータマよ、稀有なことです。友ゴータマよ、未曾有なことです。“無病は最高の利得である。涅槃は最高の安楽である” と、これが友ゴータマによって善く説かれました。友ゴータマよ、遍歴行者である昔の師と師の師たちが “無病は最高の利得である。涅槃は最高の安楽である” と話していたこれを、私は聞いたことがあります。友ゴータマよ、それとこれは一致しています」と。

すなわち、世尊が説いた偈頌と、遍歴行者たちの間で伝えられてきた偈頌とが一致するという。これに対する世尊の回答(および註釈文献の理解)は、過去仏が説いた偈頌が断片的に残存して遍歴行者たちの間で流布しているが、それは誤って理解されている、というものである。

この経典の逸話から、仏教(少なくとも「マーガンディヤ経」の編纂者)が「外教の持つ教説の中にも、仏教のものと同じ偈頌が含まれている」と認識していたことが確認される。これは大変興味深い事実である。というのも、近代文献学の成果によれば、仏教はジャイナ教やアージーヴィカ教などの沙門宗教と共通の基盤を持つことが明らかになっている。そのため、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などの仏教韻文経典に含まれる偈頌について、ジャイナ教聖典などの沙門文学(苦行者文学)に多くの並行句が確認されると報告されている。すなわち、上記「マーガンディヤ経」に現れている、仏教と外教との偈頌が一致しているという事態は、可能性としてあり得るだろうという状況を述べているのではなく、現実にあった状況を反映している。

したがって、韻文経典が必ずしも仏教独自のものではなく、仏教以前・非仏教的な要素までも含んでいることは、「マーガンディヤ経」が雄弁に物語っている。このように、仏教やジャイナ教などの沙門宗教は共通の基盤を持ち、多くの偈頌を共有していたことを仏教教団自身が認識していた。

第 4 節 小部と韻文経典

前節までに、散文こそが仏教の正統であり、韻文はその傍系であるという「別系統説」を検討した。仏典に残されている韻文への否定的態度や沙門宗教の間で同一偈頌が共有されていることなどは、資料論としての「別系統説」の妥当性を裏づけるものである。続いて本節では、これら韻文経典が「小部」「小蔵(雑蔵)」「小阿含」と呼ばれる集成として三蔵に編入される過程、ならびにその集成の聖典としての位置づけを検討する。

上座部において『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などの韻文経典は、三蔵のうち「小部」と呼ばれる経蔵の第五集成に収載されている。ところで、この小部に収載された韻文経典は、当初、経蔵(四部)には含まれておらず、後にこれらの補遺(第五集成)として三蔵に編入されたことが、多くの研究によって指摘されている。これは『島史』に残る第一結集記事では四阿含しか合誦されておらず、小部に言及していないことから確認される。これと同じ事情は、上座部のみならず説一切有部においても確認することができる。有部文献中には「小蔵(雑蔵)」「小阿含」と呼ばれる集成の存在が確認され、上座部の「小部」と同じく韻文経典を主要な構成要素とする集成であると考えられるが、やはり『根本有部毘奈耶雑事』に残る第一結集記事では三蔵・四阿含にしか言及していない。したがって上座部も有部も、韻文経典を収めた「小部」「小蔵(雑蔵)」「小阿含」と呼ばれる集成を保持していたが、それは当初の三蔵には含まれておらず、後になって追補されたものである。このような編纂の事情は、前節までに指摘してきた「韻文経典が当初の教団にとって傍系に過ぎなかった」という状況と一致する。

また、このような状況を反映して、「小部」「小蔵(雑蔵)」「小阿含」と呼ばれる集成は、それを保持する教団において他の三蔵(律・四部四阿含・阿毘達磨)とは異なる扱いを受けている。この事実は、聖典の流布・伝持形態から確認することができる。上座部文献中では、四部については『長部』『中部』などと範疇そのものが頻繁に言及されるのに対して、小部についてはそこに収載される諸経典が個別に言及されることはあっても、「小部」という範疇自体が言及されることは殆ど無い。さらに、「小部」という一セットを組織的に継承する「小部誦者」の存在も、上座部において殆ど確認できないことが報告されている。これは、他の三蔵(律・四部・阿毘達磨)が、長部誦者や阿毘達磨師などといった伝持者や専門家によって教団内で組織的に継承されていた状況とは異なっている。また、有部における「小蔵(雑蔵)/小阿含」についても、上座部の場合と同様に、この範疇が言及されることは極めて稀である。これに加え、有部文献中に「四蔵」「五阿含」という総称は確認されないため、「小蔵(雑蔵)/小阿含」という範疇が三蔵内でどのように位置づけられているのか不明確である。たとえば、有部律に対する解説書『薩婆多毘尼毘婆沙』では、波羅夷第 4 条〈妄説得上人法戒〉(悟らないのに悟ったと嘘を言うこと)を詳説して、四阿含を誦していないのに誦したと嘘をつくことを禁じ、これに続いて阿毘達磨と律に関する禁止事項も説かれるが、「小蔵(雑蔵)」「小阿含」については言及がない

同様に、有部と上座部における「正法の滅尽(隠没)」への理解からも、「小部」「小蔵(雑蔵)/小阿含」の扱いが、他の三蔵(律・四部四阿含・阿毘達磨)と異なることが解る。大乗仏教と同様に有部や上座部においても、時代とともに有情の能力が衰えていき、やがて仏陀が遺した教え(正法)を維持することが不可能になると伝承されている。

この正法の存続・消滅について有部は、経・律・阿毘達磨の三蔵を「正法」そのものと理解し、それが失われることで正法が滅尽すると理解している。ところが、有部資料において小蔵(雑蔵)は三蔵外に置かれている記述が存在するから、小蔵(雑蔵)を正法の体として認めなかった解釈が存在したことを窺わせる。

これと類似した理解は上座部においても確認される。有部と同じく上座部 も三蔵を正法そのものと理解しており、この三蔵がどのような順序で損耗していくかを詳述している。しかし、三蔵の損耗を説く隠没記事の中で、律蔵・四部・阿毘達磨蔵の構成は列挙されるのに対して、小部の構成は体系的に説かれない。これを受けて Abeynayake[1984: p. 55.7-30, p. 213.3-5]は、上座部において小部は重要ではなかったので、隠没記事にそれが取り上げられていないと述べている。また、小部は韻文経典を主な構成要素としているが、その韻文(偈頌)について、いくつか偈頌が残っていても正法を存続させられないという聖典観のもとに隠没記事が記されている。したがって、三蔵は正法であり、偈頌は三蔵に含まれながらも、偈頌だけでは正法を維持させられない。

このように、両部派における「小部」「小蔵(雑蔵)/小阿含」は、その他の三蔵(律・四部四阿含・阿毘達磨)よりも、聖典としての権威が一段落ちたものとして受容されている。この背景には、韻文経典が傍系と見なされていた当初の仏教教団における聖典観があると考えられる。

結び

以上、本章においては、韻文経典と、「小部」(小蔵/小阿含)と呼ばれる集成とが教団内においてどのように評価されているのかを考察した。

上座部や有部のみならず、大衆部においても、韻文経典は、散文経典に比して通俗的なものとして扱われている。さらに、初期経典の記述によれば、仏教やジャイナ教などの沙門宗教は共通の基盤を持ち、 多くの偈頌を共有していた。

このような韻文経典もしくは韻文(偈頌)への評価・言及は、これらが三蔵に編入される過程にも重大な影響を与えていると考えられる。既に多くの研究によって、これら韻文経典が当初は三蔵に含まれておらず、それらがまとめられ「小部」(小蔵/小阿含)として三蔵に編入されたのは四部(四阿含)よりも遅れたことが明らかになっている。

さらに、上座部においても有部においても、「小部」「小蔵/小阿含」という集成そのものへの言及は限定的にしか確認されないが、それを構成している諸経は頻繁に引用される。有部においては、「小蔵(雑蔵)」あるいは「小阿含」と呼ばれる集成を保持していたにもかかわらず、四蔵もしくは五阿含という総称は存在しない。そして上座部においては、他の三蔵(律・四部・阿毘達磨)の場合とは異なり、「小部」についてはその全体をカテゴリー単位で伝承していく専門家が存在せず、そこに収載されている諸経がそれぞれ単独に流布していた。したがって、「小部」「小蔵/小阿含」と呼ばれる集成は、他の三蔵や四部四阿含とは異なる流布形態であったことが解る。よって、おそらく説一切有部も上座部も、当初は「律・四部四阿含・阿毘達磨」と「それ以外(主に韻文経典)」という括りで聖典を保持していたものと考えられる。

以上、本章で諸資料や多くの先行研究を通して検討してきた韻文経典とその三蔵への編入が示す状況は、「散文こそが仏教の正統であり、韻文はその傍系に過ぎなかった」という資料論(別系統説)の妥当性を強く裏づけるものである。そして、「小部」(小蔵/小阿含)は韻文経典をその中心要素とする以上、教団内での位置づけも他の三蔵と比べて確固としたものではなかったと推測される。このような韻文と散文という対立構造を念頭に置きながら、三蔵形成や教理展開を考察していく必要がある。

清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p40-50

中村元が仏教学の一線にいた頃優勢だった「韻文優先説」に対して、近年は見直される傾向にあり、「散文優先=韻文別系統説」が学会のトレンドらしい。清水さんの考えも「別系統説」で結論づけており、その点では、馬場氏と立場は同じ側である。

この点に、自分は実は、別の意見を持っている。これは要するに、「何を仏教と定義するか?」ということにもかかわってくるのだが、現代に伝わっている上座部仏教の仏教像を基準にすると、「散文優先=韻文別系統説」という判定は、まったく不適切ではない、妥当なものだと思う。一方、原始仏教は、現代に伝わっている上座部仏教の仏教像とは、範囲が異なっていたのではないかというのが、僕の考えである。僕の抱くその原始仏教像に基くと、一転、「韻文優先説」が正統性を帯びてくるのである。

「韻文が、別系統で、より古臭いナマクラであるのに、なぜ、伝持されてきたのか?」ということが重要である。清水さんの言うように、それが非正統的で、重視されなかった=軽視されていた、のであれば、最初から伝持せずとも捨ててしまえば良かったのである(ヴァンギーサの詩偈のような仏教をテーマにした文学詩に近いようなものは除く)。それができなかったのは、後の教学からすれば、重要性は薄く、教理的に不明瞭なものであったにせよ、歴史的には、韻文聖典の方が先に長い間、中心的な座を占めていたということの証左である。その意味が薄れてきたとはいえ、「代々伝来の家宝」としての格付けはより高いものであったから、使い方がわからなくなってきて、ただの飾り物となったとはいえ、捨てるに捨てられなかったわけである。

いわば、絶滅した恐竜の化石、滅びた文明の遺跡のような、考古学的な歴史級の骨董品のようなものである。過去仏たちの肉声に近いものが、韻文の中に生き続けているのを、聞ける耳がある者は少ない。

そこで第一に、初期経典と教団相承の正統性の関係について概観する。既に知られているように、仏滅後に編纂された三蔵は、仏陀の教説を単に集めたものではなく、それを伝持する教団の正統性を保証するという性格を有している。経蔵の中で、これが最もよく現れるのは、『相応部』第 16 章「カッサパ相応」である。カッサパは仏滅後の教団指導者であるが、その正統性を確保する必要があったことは、既に初期経典の中から窺い知ることができる。たとえば、『相応部』第 16 章、第 13 経では、正法が衰退する要因として未来に似非正法(saddhamma-paṭirūpaka)が起こることを世尊が告げ、それを防ぐために正しい教えに住することの重要性をカッサパに説いている。これは、律蔵の「五百犍度」において、誤った教えの跋扈を防ぐために、カッサパが第一結集を主宰して「法律」を合誦したという伝承と、その目的が合致している。また、『相応部』第 16 章、第 11 経は、仏陀からカッサパへと繋がる教団相承の正統性を保証する点で重要である。本経は南北両伝ともに仏滅後に説かれたとしており、その内容は次のような流れである。

  1. 仏滅後にアーナンダの率いていた比丘衆が堕落していたことをカッサパが非難し、それについてアーナンダは非を認める。
  2. それを見たトゥッラナンダー比丘尼がカッサパに対して、「かつて異教者だった者が、アーナンダを非難するとは何事か」と声を上げる。
  3. これを聞いたカッサパは、自らの師は仏陀のみであり、さらに師と衣を交換したことがあると宣言する。

本経の目的が、仏陀の侍者であったアーナンダよりもカッサパが勝れており、カッサパこそが仏陀の後継者であることを示す点にあることは言を俟たない。以上のように「カッサパ相応」では、カッサパは仏陀の遺した正法を護持し、教団を統率する正しい後継者として描かれている。

清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p181-182

上座部経蔵に収載される初期経典の殆どは、仏陀在世時に仏陀自身もしくは仏弟子たちによって示された教説であるが、仏滅後に仏弟子たちが示した教説も少なからず含まれている。たとえば、『長部』第 10 経「スバ経」や、『中部』第 84 経「マドゥラ経」、『中部』第 94 経「ゴータムカ経」、『中部』第 108 経「ゴーパカ・モッガラーナ経」、『中部』第 124 径「バークラ経」、『相応部』第 9 章、第 5 経「アーナンダ経」、『相応部』第 16 章、第 11 経「衣経」、『相応部』第 22 章、第 90 経「チャンナ経」、『長老偈』第 169-170 偈、『長老偈』第 381-386 偈、『長老偈』第 453-458 偈、『長老偈』第 537-546 偈、『長老偈』第 920-948 偈、『餓鬼事』第 22 経、『餓鬼事』第 38 経、『天宮事』第 37 経、『天宮事』第 47 経、『天宮事』第 63 経、『天宮事』第 74 経、『天宮事』第 84 経などが仏滅後の出来事を収載していると伝承されている。

清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p205

以上を要約すれば、仏陀在世時はもとより、たとえ仏滅後に説かれた仏弟子たちの教説であっても、それが仏陀の教えに適合してさえいれば “仏説” として容認され、三蔵聖典としての正統性が確保されることになる。これに従うならば、上座部は際限なく三蔵を肥大化させることが可能であったはずである。しかし、理論としては可能であっても、新たな仏説が上座部において際限なく増殖して、三蔵の範囲を肥大化させることはなかった。

清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p211

三蔵の範囲を肥大化させ続け、果てには、仏陀の金口直説であるとの偽典をいけしゃあしゃあと捏造して釈尊伝来の阿含経典の外側の非仏教の領域(空即是色)まで飛び出して行き、五時教判に至っては、釈尊伝来の阿含経典よりも大乗経典の方が偉いと言うに至った。この大乗仏教側の態度とは、上座部の態度が、大違いなのがわかる。

要するに、この態度の違いというのが、それぞれの伝統を担ってきた人々の、態度・人間性というものの違いであり、その人間性の聖・俗の違いだということは、聖の側からは明白である(俗の側は頭が悪いので、何でもかんでも相対化して正当化を図る)。

阿毘達磨が三十三天において説示されたという因縁は、上座部において広く知れ渡った伝承であり、その他の多くの上座部資料にも残されている。『清浄道論』では、この “説示の因縁” を次のように詳細に伝えている。

Vis. (pp. 390.33-391.13):

(...)

伝え聞くに、世尊は双神変をなして、八万四千の者たちを縛より脱せしめ、「過去仏たちは双神変をなし終えてからどこに行ったのか」と考えて、「三十三天の領域に行った」と知った。そこで、片足で地面を踏み、二〔歩目〕をユガンダラ山に置いてから、さらに前の足を持ち上げてスメール山の頂を踏んで、そこにあるパンドゥカンバラ岩の上で雨安居を過ごし、集まってきた鉄囲山にいる一万の神格たちに、阿毘達磨の説を最初から最後まで開示した。乞食に行くときには化仏をつくりだし、そ〔の化仏〕が法を説示した。世尊は、ナーガ蔓の楊枝を噛んで、アノータッタ湖で顔を洗い、ウッタラクルにおいて乞を得て、アノータッタ湖畔で食べた。サーリプッタ長老はそこへ赴き、世尊に礼拝した。世尊は、「今日は、これだけの法を説示しました」と、長老に〔阿毘達磨の〕理趣を与えた。このように三か月の間、阿毘達磨の説を間断なく話した。それを聞いて八十百千俱胝の神格たちにも法現観が起こった。

これらの上座部伝承によれば、成道 7 年目の雨安居の際に、仏陀は三十三天において母をはじめとする諸天のために阿毘達磨を説き、その教えをサーリプッタに伝えたとされる。また、『法集論註』に残されている伝承によれば、仏陀から教えを受けたサーリプッタは、地上にいる比丘衆にこの阿毘達磨を説示したとされる。このような “説示の因縁” は、阿毘達磨が仏在世時の成立であることを主張する上座部にとって必要不可欠なものであったと考えられる。しかし、ブッダゴーサが「伝え聞く」(kira)と述べているように、この因縁は上座部内でのみ伝承されていたに過ぎず、経蔵や律蔵に残されているわけではない。さらに、この因縁のもとになっている「仏陀が三十三天に昇って説法した」という伝承は、部派を超えて数多くの資料に残されているが、それに加えて「そこで阿毘達磨を説いた」という筋書きは、比較的後代に成立した上座部文献においてのみ確認される。したがって、この阿毘達磨説示の因縁は、広く仏教徒の間で知られていた伝承をもとに上座部が独自に編集したものであり、他の部派にも通じるような説得的な証明であったとは言いがたい。

清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021-02-15)p211

このサーリプッタと論蔵の因縁話には、もっと深い、重大な真実が隠されている。

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