父の死 4

一昨日に父の火葬が終ったことで、葬儀的な面での一応の区切りがつき、やっと諸々の手続的な物事に取り掛かれる心境になった。この辺りのことは、進行中の物事なので、今後も折に触れて記すかもしれない。

まず一般に、医師の死亡診断書を元に市役所に死亡届を提出しなければならないのだが、これは葬儀屋に手配をした段階で、葬儀屋が火葬許可証を取る手続の中に含まれており、我々遺族サイドで直接手続する必要はなかった。

火葬場で火葬が終った際に、諸々のしなければならない公的手続に関する案内が両面に印刷された紙を渡された。基本的に死亡診断書(のコピー)があれば、年金の受給の停止などは手続できる。ただ、ほとんどは、死亡に伴う資格停止の手続というより、故人の権利を相続する相続人側にとっての手続であり、これに関しては、戸籍謄本(全部事項証明)を中心とする証明書類が必要となる。むしろ、相続手続的な要件が中心である。

本籍地は遠隔地にあるので、昨日とりあえず、戸籍謄本を(郵送で)取り寄せるため、本籍地の市役所に請求のための書類を送った。死後速やかに行うべき一連の手続は大体が 2 週間以内なのであまり余裕はないのだが、まあどうにか間に合うだろうと思う。


先日、母と父の転生先について話した際、(悪い方に転生したわけではないのでそれはいいとして)天国ではなかったんだ、というようなことを言われた。すごく人柄の善い人だから、天国に言っても不思議じゃないと思っていたんだけど、と。僕は、仏教的には、人間界もちゃんとした善趣であり、善人であれば、人間は人間でも相応の良い境遇に生まれるんだよ、と答えた。

この点については、やはり一般の人の死後のイメージとギャップがあるかもしれない。現代(というより昔からか?)日本人の死後観というのは、アブラハムの一神教系の天国と同じで、現世が終われば肉体的な生命は永遠に終ってしまい、次のあの世になるだけ。そのあの世への振り分けが、天国(極楽浄土)なのか、地獄なのかという、ワンチャンス一発勝負の終着点としての問題である。これだと、できるだけ良い方に行かせてあげたいと思うのが心情である。

僕自身は元々、本当はあまり天界(欲天・梵天)か人間界かという行き先はあまり気にしていなくて、何か間違って三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に陥ってしまったらどうしようという点だけが(父について)気がかりだった。

まあもちろん、元々歌が好きだった父なので、場合によっては欲天に行けたのならば、下位神ではあるものの伎楽神のガンダルヴァとかになったりして、と生前は戯れに考えたりもしたことがあった。

元より、人の死に往く先を見通すことは天眼通と呼ばれる神通力の一種であり、自分がそのような能力を発揮することは難しい。なので、せいぜい状況証拠的に、推理することしか無理である。サーリプッタ長老が、釈尊に答えたように、声聞の阿羅漢聖者である彼が、自分よりも優れた仏陀(正自覚仏や独覚仏)の器量の大きさを直接把握することは不可能だが、城塞都市の城門を出入りする人の数から間接的に都市の人口規模を把握できるように、推理によって仏陀の器量の大きさを推し量ることはできるのです、と。

今回は、実際に父が亡くなったので、それこそ必死に手掛りを探るほかなかった。もし、悪趣ならば、親不孝者であった僕の心にも激しく影を落としただろうし、それは甘受せざるを得ないものである。悪趣で苦しんでいるのであれば、僕にも何らかの予兆で気付かせて欲しいと願った。まず第一に思ったのはそれである。

そして反対に良い方に行った場合、天界であれば、むしろ何も知らせはないはずだろうと思った。通常、天界の欲楽に夢中で、娑婆の人間界のことは思い出す暇も隙もないものだろうから。もし、気が向けば知らせてもらえれば、それによって少なくとも悪趣ではないことが確定するから、こちらとしては安心できるけど、せっかく天界にいるのに、わざわざ雑念に塗れた娑婆に赴いてまで苦労をかけるほどのことではないと思ったのである。父が天界に行った場合は、どちらかというと、僕の側が、修行して欲天へ行けるようにして父の元を訪ねて確認するなりするのが筋だと思った。

そんな風に悪趣行きが気がかりだったので、次生が人間界である可能性については、特に念頭になかった。結果、状況証拠的に、一番、人間に転生した可能性が高いと推理せざるを得ない状況になったので、それを前提として、「ああなるほど」という部分が後から浮び上がってきたような感じである。


父のケースを通じて、真摯に考えた経験から、そう“易々と”天界に行けるものではないんだな、ということを実感した。というか、このように考えるのも、やはりアブラハムの一神教的なあの世像に影響を受けており、あまりにも人間界に転生することを過小評価していることに我ながら気付いた。人間界も善趣であり、むしろ仏教的には、修行できる唯一の場所なのである。アビダンマでは、何でも画一的(デジタル)に体系化してしまうきらいがあって、人間界→欲天→梵天と一直線に格付けしている感じに思えてしまう。でもこれはよく考えたら、禅定の深さでレベル化したものに過ぎず、特に上に行くほど良い、という話ではなかったことを忘れてはならない。禅定が高ければ高いほど良いのであれば、梵天は梵天でも色界のさらの上の無色界の方が良いという話になるわけだが、どちらかというと無色界はあまり好まれていない。確か、お釈迦様の誕生に立ち合ったアシタ仙人だったか、自分は死後無色界に行くことになるので、次に誰がしかの仏陀に出会えるチャンスは非常に長い先になると言って嘆いたというエピソードがあった気がする。

日本の浄土信仰にせよ、なぜ(善い方にせよ悪い方にせよ)あの世ばかりに次生を考えようとして、そうではなくて人間界に転生するという観点で来世を考えようとしなかったのだろうか? やはりこれは所詮、「無我輪廻」ということに対する無理解で、魂(人格)的な発想の「有我転生」的な形で来世を考えていたからだろうと思う。根本に、肉体の生に囚われた人格(魂)があり、それが滅びることに対する恐怖感があるわけだから、少なくとも、肉体が死ねば、肉体の生は永遠に断絶するという発想が根にある。この点で、唯物論的断滅論者と根は同じである。だから、もう一度別の肉体生を念頭に置くことが難しいのである。この恐怖感にあの世での来世を妄想することでバランスしようとするのが、肉体と違って不滅である魂が転生するとする「有我転生」的なあの世観を持つ各種信仰。現世での生にフォーカスして可能な限り死の直前まで恐怖感を忘却してバランスしようとするのが、唯物論的断滅論者である。いずれも出発点は同じで、「魂」=人格、個我(アートマン)に発想が囚われている。対して、仏教(者)の三法印の一つは無我である。

──無我だから輪廻する、ということについての僕の考えは先日述べた通りである。輪廻するのは、例えるならば霊(のようなもの)であって魂ではない。まあ、「霊」という言い方も、一般的なイメージからすると、「霊魂」というセットで使われたり、「霊体」という風に何らかの実体的なものとして表現されたり、「幽霊」という形で人格的に捉えられたりもする言葉なので、人からすれば、多分に「魂」と同種の類として捉えられて、語弊を招く可能性は十分にあるが……。英語で言う soul とか ghost ではなくて、spirit なんだという話。どちらかというと、シミュレーション仮説的な世界における、「情報」的なものだと言えばいいのか。


父が天界ではなかったという(推理上の)話に戻るが、まあ、父が良い人だったと言っても、普通の家庭人、一般市民としての話だ。あくまでも凡俗の一市民としての観点で善人として生涯を終えた。普通に蚊やゴキブリなどの虫は殺したりしていたと思うし、外国の話になれば普通に NHK などのマスコミが報道で垂れ流す価値観に洗脳されて日本人的な狭い内輪受け的主観の範囲内での社会的正義感を持って言動したりしていた。所詮は善人とはいえ俗世間人の価値観での善人に過ぎない。だから、人間界でも問題ないと思うし、むしろ生前の人生からしたら、要するに、一市民のスケールの人生に十分満足して人生を楽しみ愛していたわけだから、天界に行くよりも、また人間界を繰り返して楽しむ方を自ら選ぶのが自然である。

そんなわけで、仏典では珍しくもない、天界行きの話だが、そうマンガのような安直に発生するものではないことがわかる。天界に転生するような人は、生前から俗世間での人生や価値観に埋没せず、かなり浮いたような存在になるのではないだろうか。もちろん、その浮いた状態が、表向きに他人に顕わになっているかどうかは別として。

というのも、特に天界(欲天・梵天)だけの話ではなく、悪趣(地獄・餓鬼)もそうなのだが、善趣か悪趣か以前に、いずれも化生であるという点が実は大きいのではないだろうかと思うのだ。善趣は善趣、悪趣は悪趣で、分けて、別々に考えるから盲点になり易いので、どちらにせよ化生じゃないのか、と。善悪の別は、仏教的な価値観に従って分けだだけである。もちろん、この善悪はそれ自体仏教的価値観としては非常に重要なものではあるが、それは別として、「あの世」を考える分には、アビダンマのように善悪で分けて分類するのではなく、まずは、娑婆世界(人間・畜生)と化生世界(欲天・梵天、地獄・餓鬼)に真っ二つにして分けるべきではないか、と思うのである。こう考えると、次生を推理する基準として考え易くなる気がする。

要するに、娑婆では肉体の制約を受けるが、化生の場合は肉体がないので精神だけで存在が成立している。仏教(アビダンマ)の用語では「色」と呼ばれるものが物質で、色界と無色界という区分があるが、この区分とは食い違うので注意して欲しい。色と無色は、禅定に基く基準であり、瞑想する「対象物」が有る(色)か無い(無色)かという話である。そこの住人が、物質的な生命かどうかという話ではない、はずだ。

肉体の制約を受けないので、精神がそのまま現実化(造化)し、何ら歯止めなく妄想が暴走し続ける。化生の世界が人間界に比べて寿命が桁違いに長いのは、そのせいである。ハッと我に返るチャンスが非常に少ない。浦島太郎の伝説は、そのような化生の世界の性質を伝える一つのサンプルである。化生世界はほとんど念(サティ、気付き)を起こせない世界なのである。仏教の出家修行僧の瞑想修行は念(サティ、気付き)を基軸としているから、なぜ人間界以外では修行ができないと言われているかがわかるだろう。

地獄界では瞋恚が暴走した状態が悪循環する。餓鬼界では貪欲が暴走した状態が悪循環する。考えるだけで恐ろしい状況である。何か恐怖感を抱くと、それがそのまま現実化する。現実化した恐怖に対して必死になって逃げようとする。ますます恐怖はエスカレートして地獄の亡者を苦しめる。自業自得が悪い方に循環するのである。

それらの反対が、梵天界(不瞋恚)と欲天界(不貪欲)だと考えればわかりやすいだろう。これらの世界では善い心の好循環が起っている。

ともかく、善い方、悪い方、いずれにせよ、精神のみで成立しているため、自業自得がストレートに自己循環するのが化生の特徴である。肉体の制約を超えた、度を越した精神作用の暴走。これが特徴である。先に悪い方から言ってみれば、普通の人は誰しも、多少は怒りを感じたり、自分勝手な思いを抱いたりはするだろう。しかし良識的な人間は、ほとんどが、不平不満を抑えつつ、他者との決定的な対立に至らずに人生を乗り切る。しかし中には、その内心の不平不満を爆発させて現実行為化してしまう者が出てくる。つまり、瞋恚や貪欲が、肉体の制約を超えて暴走するのである。こうなると、死後に化生する可能性は高まる。

善い方で考えれば、肉体の制約(一私個人としての存在)を超えたスケールの善意に駆られたような慈善家的な生き方をするような人なのだろうと思う。必ずしも、世に知られた有名人というわけではなく、その人自身がどのような心に駆られていたのか、ということが問題なので、実際には市井に埋もれた人であっても何も問題はない。

まあ、こんな風に考えると、「人間界、転生先として決して天界と比べても悪くないでしょ?」とも思える。肉体という「ハッと我に返る」ための物理的なセーフガードがあるのは娑婆世界だけだからだ。もちろん、戦争があったり飢餓があったりで、瞋恚や貪欲の濃淡はある。肉体という道具の維持・生存に囚われ過ぎて手段が目的化すると、畜生道(愚痴)に陥いる危険性もある。人間界でできるだけ善業を受けた生まれを得られるように、慎んで人生を全うしたいものである。

(2021-09-18 13:45)

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