父の死 3

本日午前中に父の火葬が無事終った。両親とも浄土宗系の家の出ではあるものの、跡取り長子でもなく、守る墓も菩提寺もなし、特に宗派に対するこだわりはなく、要するにカルチャー的な(社会慣習上の)日本の大乗仏教徒であり、信仰上の自覚ある仏教徒ではない。両親は既に知り合いからの勧誘でマンション型の墓地を契約していたようだが、そこは浄土真宗系らしい。そんな程度の感覚なわけである。

たまたまコロナ禍のご時世ではあったものの、元より両親は簡単な家族葬程度にしたいと考えていたそうなので、家から出る時も、火葬にする時も、何らお坊さんにお経も上げてもらうようなことすらしなかった。
僕自身はブッダへの礼拝と三帰依を黙って唱えたが、これにしても、死者(父)に対して成仏のための呪文を唱えるというような趣旨のものではないわけで、唱える対象は仏法僧の三宝なわけである。

火葬が終わるのを待つ一時間以上の間に、二人の弟にも、父がマレーシアのペナンあたりの華僑に転生したかもしれないという、僕の推理を話した。前日、東南アジアぽい女性のヴィジョンを見た時、「マレーシアなど」という感じで、最初にマレーシアという国名が思い浮かんだのだが、マレーシアというとイスラーム=ムスリムの国という点で、論理的に少し戸惑いがあったのである(父がムスリムに転生するのはまだ構わないのだが、仏教徒である僕がその息子として転生しうるのかという問題)。しかし、後でよくよく調べてみると、最大多数のマレー人(ムスリム)に次いで華僑系のマレーシア人も結構いるということがわかった。ヴィジョンの女性は切れ長の眼が特徴的だったから、華僑系マレーシア人というと違和感はない。さらにペナンは元々貿易都市であり、近年は新興工業都市として発展著しいマレーシア第二の都市であり、貿易都市時代から華僑が多く集っているという。
さらに、宗教面について調べてみると、華僑系マレーシア人は元々は大乗仏教だったり道教だったりするようだが、要するに日本人同様、宗教はどちらかというとカルチャー(社会儀礼)的なものであり、信仰心との結び付きが薄い。それで地理的にも、スリランカ・ミャンマー・タイ出身の本物の上座部の比丘がやってきて指導を行っており、上座部仏教徒の在家コミュニティが華僑の間に広がっているという。
これは典型的な(特に信仰心があるわけではない、実質無宗教の)日本人である父が転生しても何の違和感もない状況だし、また自覚的仏教徒である僕がその息子として生まれる環境としても、差し障りはない感じである。

昨日、家から父の亡骸を運び出す際、部屋の中に両親が各地を旅行したりして集めた品物をゴチャゴチャと飾っている飾り棚があったのだが、その中で、ペナンの蝶々園で父が買ってきたカメムシの標本だけがまるでポップアップするかのように印象に残ったことを思い出した。それがペナンで買った土産物であることを確認したのは、上の推理の後である。10 年ほど前、両親は、◯◯◯クラブの海外ホームステイで、実際にペナンの華僑の所に滞在したことがあった。

──まあ、推理は推理である。

弟たちも、母同様、転生先の話以前に、そもそも輪廻転生と言われても、どこまで真に受けとめられているのかわからない感じである。

そもそもが普通の人が「輪廻転生」と言われても、肉体と別に魂があって、それが次の肉体を得て生れ変わるという発想ではないか。「小説家になろう」で大量生産されている、「異世界転生」系の発想は完全にそれである。「輪廻転生」の一方で、「無我だから輪廻する」と主張する仏教の論理に整合性を見出せない人がいても無理はないかもしれない。魂の存在を前提として輪廻転生を肯定する人、反対に無我を前提として輪廻転生を否定する人、仏教には二種類の相矛盾する肯定の仕方が発生しがちである。

人口に膾炙した表現をすると、仏教の「無我」というのは、要するに「我=魂」なんて「無い」とキッパリ言っているようなものである。この点でほとんど、唯物論と同じ側に立ち、ヒンドゥ教的な輪廻転生思想のみならず、ユダヤ・キリスト・イスラームのアブラハムの一神教とも対立し、ほとんど宗教というよりも、宗教否定の非宗教的哲学・思想のような立場である。

しかし、唯物論と大きく立場を異にするのは、唯物論は、物質的肉体生命現象が「全て」であるから、その肉体死とともに、人の生命・人生は終わる。その考えに対しては、仏教は、「輪廻転生する」と唱えて、真っ向から否定するのである。

じゃあ、一体、仏教は、魂を否定しながら、一方で輪廻すると言い、魂がないのに輪廻するのは何なのか? 誰なのか? 「無我だから輪廻する」ってわけわからないじゃないか。それで仏教を支持する人々でも、その辺りには苦しんで、「輪廻転生は正しいが、無我は後から後の仏教徒が勝手に言い出した」事にしたり、反対に「無我が正しいが、輪廻転生は何らかの例えとかであまりマトモに考える意味がない」話としてスルーしたりという風になったりする。

いやしかし、「無我だから輪廻する」──これだから実はむしろ整合しているのである。「有我(魂が有る)から輪廻する」の方が、おかしい気がする。また「無我だから輪廻しない」もおかしいのだと。

ここでアブラハムの一神教的な表現になるが(この方が現代日本人の人口に膾炙するかもしれないので)、仏教が否定するのは、「魂(soul)」であって、「霊(spirit ≒意識)」ではないのである。つまり、「輪廻するのは霊である」ということを言っているのが、「無我だから輪廻する」という仏教の主張ではないのかと思うのである。

「魂」などというのは、錯覚というのが仏教の無我論である。キリスト教では三位、父と子と聖霊と言ったりするが、子に相当する「魂」というのは、一つの肉体に霊が宿った時に芽生える「人格意識」ではないかと思うのである。この「個としての人格意識(我=アートマン)」というのは錯覚であると看破しようとするのが仏教の無我論である。

一方、無我だ無我だと言って、実質的に、唯物論的な感覚で、現世を超えた物事である彼岸や輪廻転生を否定するとしたら、そもそも仏教以前に信仰者に在る資格がない。

このように「霊」的な意味で、「無我」ということを理解している者ならば、それが当然、輪廻することは領得できるはずである。個我、魂なんてものは、肉体の生とともに滅びる一世一代限りの存在であるどころか、生きている内ですら本来は錯覚なのである。一方、「霊」=「無我」は仏教の三法印(無常・苦・無我)の一つである。これを否定する者が仏教者たりえるわけがなく、当然、これを是とする者(仏教徒)であれば輪廻転生を否定しようがないのである。

(2021-09-16 17:59)

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