父の死 2

今朝(2021-09-15 06:40)の夢の最後の場面だけ印象に残っているが、バスか何かで踏切か交差点に差しかかろうとしており(時間帯は日没直後あたりの夜っぽい)、特に何らストーリーなしに一人の若い二十そこそこの女の姿が(バスの中に?)いた光景で終っている。また同時に「Joy」というキーワードも終りに浮かんでいた。目覚めた時、心臓がドキドキしていた。

その女は切れ長の眼をしているが、どちらかというと日本人などの東北アジアの北方モンゴロイド的ではなく、マレーシアとかインドネシアとか(タイやシンガポールを含む)東南アジア系の感じだったかもしれない。さらにはロシアまでを含む、アフガニスタンなどの中央アジア系の女性にもいそうな感じだった。ヨーロッパやアラブ人のような、睫毛の濃く眼がパッチリ系ではないのだが、かといって北方モンゴロイドぽくもなく、どこかエキゾチックな感じがあった。肌の色は濃くはなく東南アジア系としては比較的色白に思えた。やや口がおたふくというかおちょぼ口というかかわいく突き出したような印象だが、かといって日本人のオカメ顔というわけではないのである。髪はサラサラの黒髪ロングであった。考えようによっては、Yちゃん(註)に似た系統の顔かもしれないが、夢の女がなぜマレーシアあたりの東南アジア系に見えたかというと、小柄小顔で華奢な感じが、日本人でも普通は女子中学〜高校生くらいの間限定だろうと思うのだが、東南アジア系では成人しきって二十代でもそんな感じだったりするからである。
もしかして、これが父の母親となる人なのかもしれないなと思った。前日、父の次生について、何らかの手がかりが得られればな、と思って床に就いたからである。

もし、東南アジアなのだとしたら、母や僕たちも、このまま行けば来世はそちらに生まれることになるのだろうか、父方のおばあちゃんも、そういう流れで先にそちらに転生していたのだろうか? などと思考が膨らむ。父は戦中生まれで、高度経済成長期〜バブル期をくぐり抜けてサラリーマンとして過ごした世代である。次生も似たような時代の潮流にある土地へと生まれることになるのかもしれない。そう考えると、地球規模で、輪廻を通じて、転生の水平移動が起っているのではないだろうか。次回、僕は日本人ではないのかもしれないのである。そう考えると、後に転生することになるかもしれない外国のこと(特に貧困や戦争などの災難を)を、他人事だからとして簡単にないがしろにできないし、翻って日本も今の人生のうちに堪能しておきたいと愛おしくもなる。
確か、何かの経典(相応部あたりだったか?)で、自分が無数の過去生で互いに親子兄弟姉妹でなかった相手を見つけるのは難しいほどで、その辺りが、殺生肉食を戒める理由にもなっていた話があったと思う。この夢の父の次生の母親なのかもしれない女性は、今世でおばあちゃんだった人ではない人かもしれない。とはいえ、さらに過去生のどこかでは、やはり父の母であったり、僕のおばあちゃんであった人かもしれないのである(さらに言えば、必ずしも父にとっての母、僕にとっての祖母である必要性もなく、娘や孫、姉妹、友人でもありうる)。

今日の気候が、台風が近づきつつあり、やや亜熱帯ぽい湿った暖かさのため、東南アジアっぽい夢を見ただけなのかもしれない。しかし、こんな風に、地球規模の輪廻転生による水平移動を考えると、それぞれの国が自分勝手にイデオロギーやナショナリズムを押し引きするような狭いものの見方を根底から払拭するコンセプトである。だから、その経典で述べられている輪廻コンセプトは正しいのだ。流石はお釈迦様だと思う。「都合が良いことだからといって、それが真理で正しいとは限らない」とも反駁できるのだが、「私は仏教徒である」という自覚を仏教徒が抱く場合の確信と同じで、「これは正しい」という確信なのである。であるから、仏教徒であれば、お釈迦さまの説法を聞いて(現代人は経典を読んで)、心を覆うベールが取り払われ光明を見いだして、「歓喜する」のである(自称仏教徒の場合は、経典の字面だけを見ても、良識的な納得はするかもしれないが、「歓喜する」ことはないだろう。同じ話を聞いても、当時その場に居合わせてお釈迦様の説法を聞いた仏弟子(本物の仏教徒)と同じ心的背景を以って話を聞けるわけではないからである)。

また、そんな風に水平移動する地球規模の輪廻転生現象から考えると、人間の寿命が短いことは、決してデメリットではないのではないだろうか。むしろ、寿命が長いことによる「滞留」のデメリットの方が問題になるのではないか。地獄や餓鬼の場合は、寿命の長さは「苦しみが長く続く」という意味で解されるが、天界にせよ、長いということは、「ずっとそこに留まらなければならない」ということを意味する。寿命が短かければ、また新しい水平移動ができるのだ。あちこちの暮らしを経験できる、ワールドツアーのようなものである。誰だってずっと机にかじりついて今ある作業に没頭し続けなければならなかったりしたら嫌だろう(だが、これが地獄や餓鬼、天界で起っている状況である)。タイマーが鳴ってハッと我に返れるお陰で、解放されるのである。肉体の寿命は、確実なタイマーなのである。

(2021-09-15 13:39)

Yちゃん
家庭教師で教えたことのある知り合いの女の子。

本日 14:30~15:00 に葬儀屋によって父の遺体が運び出される。自宅最後の時ということで、今日も母からその前にもう一度父の亡骸に見えるよう言われており、14:00 過ぎに実家のマンションに行った。
そして母には、自分の感覚・予想として、父はマレーシアあたりの東南アジアに転生したかもしれないということを話した。特に自覚的仏教徒というわけでもない母が、そもそもが輪廻転生を前提としたその僕の話自体をどの程度真摯に受けとめたのかはわからない。
母の父の亡骸に対する態度にしても、葬儀屋の態度にしても、亡骸自体を亡き父自身の存在と同一視しているかの如くのものである。これから葬儀屋の安置所に移送して、明朝葬儀屋から火葬場に出棺することになるわけだが、「これでご自宅最後となりますので、車までお見送りなさってあげてください」ということであった。
昨日述べたように、父の亡骸は、「遺品」としては、最上級のものである。在りし日の父を思い出す思い出の品として、亡骸以上に生々しく強烈に呼び起こしうるものはない。しかし、そのことと、亡骸自体を父の存在そのものと同一視することは、決定的に違っている。これは父の存在ではない。まだ意識あるうちの父と触れ合うことにこそ意義があったのだ。
今生で、こういった形で互いに過ごすことはもう二度とない。一期一会である。父の亡骸と対面すると、昨日と同様、そういった意味ではやはり心をえぐられるものはある。だが、昨日と違うのは、一方で、父が東南アジアに転生したかもしれないという予感、このまま行くと、自分もゆくゆくはその息子として転生して東南アジア人になるかもしれないという可能性を心に抱いている点である。
昨夜のように、ただ後悔だけに苛まれて、何の救いもない状況ではなかった。一方で希望も芽生えている。やはり輪廻を説く仏教は正しいのだ。
父が待っているかもしれない来世に向けて、今生の残された月日を使ってどう有意義に過ごすかを考えようではないかという気持になった。来世に──どこに生まれることになったにせよ──その時に、より生きやすい世界にしておくために、この世界にどう関わっていくのかを。日本人が日本人の(子孫の)未来のために将来を憂うとか、そういった現世的な死生観に囚われた狭い視野ではなしに、仏教の輪廻観を通じた──お釈迦様が説き明かしたことによって覆いが取り除かれた状態となった──広い視野でのより明るい未来のために。

(2021-09-15 16:00)

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