馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』

最近、個人的な経験がきっかけで四聖諦について考えていて、ある一つの発見があった。そしてふと、(中身がすっかりすり代わって実質的に別物と化してしまった大乗仏教はそもそも論外としても)現存する仏教の中で最も原始仏教寄りである上座部仏教(テーラワーダ)にしても、より古い時代の仏教とは違っている部分があり、元々は四聖諦そのものが修行内容だったというような話があったのを思い出した。東大の学者で馬場という名前だけが記憶に残っていたので、早速調べて、馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』であることがわかり、再度、手に取って読み直してみた。

上座部の系譜

この部分の話はこの本の主題そのものではないのだが、上座部仏教の系譜について知らない人にとっては簡潔に良くまとまっている(流石は東大出身の人だけはある)文章なので、一読の価値はあると思う。

したがって、上座部仏教の〈独自性〉と〈同一性〉の両者は、五世紀前半、スリランカの上座部大寺派へ集約される。上座部仏教が他の仏教とは異なる固有の性格を帯びて、その〈原型〉を形成したのは、5 世紀前半の上座部大寺派においてなのである。そこで 5 世紀前半の上座部大寺派が果たした歴史的役割を検討するために、上座部仏教の歴史を概観した上で、上座部仏教がその〈原型〉を形成した時代・場所・人物を改めて特定し、そこに研究の焦点を絞ることにしたい。

スリランカには、紀元前 3 世紀頃にインドから仏教が渡り、アヌダーダプラの都に大寺(Mahāvihāra)が建てられた。紀元前 1 世紀頃には、同じアヌラーダプラに無畏山寺(Abhayagirivihāra)が建てられ、その後、祇多林寺(Jetavanavihāra)が建てられた。これら 3 派はいずれも「上座部」の系統だったが、大乗仏教に対する態度は、大寺派とその他 2 派ではまったく異なっていた。

大寺では、紀元前後から三蔵に対する註釈が作成されるなど、思想活動が続けられていたと考えられるが、5 世紀初頭にブッダゴーサ(Buddhaghosa)という学僧が登場し、これらの古資料を踏まえて、上座部大寺派の教学を体系化した。現存資料を見る限り、「上座部」や「大寺」の伝統を掲げて作品を著し、思想を体系化したのは、ブッダゴーサがはじめてであって、彼以前に遡ることはできない。ブッダゴーサ以後、上座部大寺派はブッダゴーサの思想を「上座部大寺派の決定説」として継承した。ブッダゴーサ作品が体現する「大寺の伝統」をもって自派の指標とし、大乗経典を受け入れなかったのである。

他方、無畏山寺派と祇多林寺派は、まったく違う方向で発展した。2 派は積極的に大乗仏教を受容したのである。7 世紀にインドを旅した玄奘によれば、無畏山寺派は大乗と上座部を兼学している。実際、無畏山寺や祇多林寺の遺跡からは、大乗経典を記した碑文が発見されている。スリランカ各地から大乗の尊像が数多く発見されていることも考え合わせると、資料や遺跡から知られる限り、スリランカで大乗仏教は繁栄していたのである。

このように、大寺が大乗仏教を排斥したのに対し、無畏山寺と祇多林寺は大乗仏教を受容していた。12 世紀になると、3 派が並立するという状況が一変する。スリランカのパラッカマバーフ王(Parakkamabāhu I 在位 1153-86 年)によって、上座部無畏山寺派と上座部祇多林寺派の比丘たちは上座部大寺派の戒壇で再出家するよう強制された。その結果、上座部大寺派がスリランカの仏教界を統一し、無畏山寺派と祇多林寺派、そして、両派の内部で活動していた大乗仏教はスリランカの表舞台から姿を消してしまったのである。

その後、上座部大寺派は次々と東南アジア大陸部へ教線を拡大し、15 世紀に始まる大交易時代には各地の新興国家と関係を深めて急速に根を下ろしていく。1479 年、ミャンマーでハムサワティ朝のダンマゼーディー(Dammazedi 在位 1472-92 年)が、上座部大寺派のカルヤーニー戒壇を設けて上座部大寺派を奨励し、すでに他派で出家していた者もここで再受戒させたため、ミャンマーの仏教界は上座部大寺派の独占するところとなった。同様に、タイ・ラオス・カンボジアでは、スコータイ朝、アユタヤ朝等が上座部大寺派を積極的に導入し、出家者はすべてこの系譜に連なることになった。東南アジア大陸部にはすでに大乗仏教やヒンドウー教が広まっていたのだが、わずか数世紀の間に上座部大寺派がこの地を席巻したのである。

このように、上座部仏教の歴史を概観するならば、上座部仏教の起源は上座部大寺派にあり、上座部大寺派の思想的立場を確立した人物は 5 世紀前半のブッダゴーサであることが分かる。12 世紀以後、上座部大寺派がスリランカと東南アジア大陸部を席巻したことを考えると、ブッダゴーサが果たした歴史的役割は測りしれない。ブッダゴーサは、現存する上座部仏教全体の思想的な原型(独自性と同一性)を作り上げた人物なのである。その点で、上座部仏教の思想的本質は、5 世紀前半の上座部大寺派で形成されたと言っても過言ではなかろう。

「序論 第 1 章 問題設定」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p6-8)

要するに、紀元前 3 世紀から存在した上座部の大寺派において、大乗仏教にじわじわと汚染される(中身が生身のゴータマの教えから偽典の教えにすりかわっていく)仏教界に対して危機感を抱き、5 世紀前半にブッダゴーサが決定的な大乗仏教の隔離(quarantine)を行う(ただし、あくまでも大寺派内部での話)。これにより、時代が下るとともに、大乗を兼学していた上座部他派との劣化度の違いが明白になり、12 世紀に政策的な“浄化”が行われるに至る。このスリランカ国内での成果が、やがて 15 世紀以降に東南アジアにももたらされて現代に至る。

漏尽の決定打となる鍵は四聖諦であった

現存する伝承で、最も古い形のものは、四聖諦によって最終的な悟りに達するというものである。これは、特に馬場さんのこの著書によるものでもなく、パーリ仏典に素直に接していてわかっていたことだ。経蔵では比丘や在家に対する説法として締め括りで頻繁に出てくるし、そもそも律蔵の初転法輪からして、五比丘に対する最初の説法が四聖諦だ。むしろ、現代の上座部の実際の修行と四聖諦そのものが直接つながっていないことの方に違和感を覚えるくらいである。

さまざまな伝承を収録するパーリ三蔵の中でも、最も頻繁に説かれる成仏伝承は、三明説である。三明説は『中部』で繰り返し説かれ、『増支部』や律蔵にも現れる。経蔵や律蔵の伝承者にとって、三明説が非常に重要な成仏伝承だったことがうかがえる。

三明説では、菩薩時代のゴータマが四禅を経て夜(初夜、中夜、後夜)に三明を獲得してブッダと成る過程が説かれる。すなわち、初夜に過去の生涯を悟って第 1 の明知を得、中夜に天眼を清めて第 2 の明知を得、後夜に四諦を認識して第 3 の明知を得て成仏する。最終段階に当たる第 3 の明知では、次のように四諦を認識する。

このように心が統一され、完全に浄化され、完全に清められて、よごれなく、汚れを離れ、柔軟で、快活で、安定して、不動になったときに、そ〔の私〕は漏尽知に心を傾けた。その私は、「これは苦である」とありのままに知った。「これは苦の原因である」とありのままに知った。「これは苦の抑止である」とありのままに知った。「これは苦の抑止に到る道である」とありのままに知った。「これらは漏である」とありのままに知った。「これは漏の原因である」とありのままに知った。「これは漏の抑止である」とありのままに知った。「これは漏の抑止に到る道である」とありのままに知った。

ここでいう「漏」(āsava)とは「流入」を意味する語である。Alsdorf[1965]、榎本文雄[1978][1979]によると、もともとインドでは行為の結果とその解消に関する理論を表していたこの言葉は、仏教において精神的なものに意味を変え、さらには、煩悩の同義語として解釈されて、「流出」を意味するようになった。この一節でも、煩悩の同義語として用いられている。

この文脈で「苦・苦の原因・苦の抑止・苦の抑止に到る道」(苦・集・滅・道)という一般的な四諦説とともに、「漏・漏の原因・漏の抑止・漏の抑止に到る道」(漏・集・滅・道)という特殊な四諦説の認識が説かれるのは、理由がある。第 3 の明知は「漏尽知」と呼ばれ、ここにおいて漏(煩悩)が滅びるからである。この様式では、一般的な四諦説(苦集滅道)が、特殊な四諦説(漏集滅道)を介して、第 3 の明知(漏尽知)と結びついていることが分かる。

このように、律と経とで説かれる三明説では、後夜に四諦を認識して第 3 の明知に到る。ブッダと成るために、四諦の認識が決定的に重要なのである。

「第 1 篇 第 1 章 第 1 節 律と経の三明節」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p29-30)

ちなみに、現代の上座部の修行方法としては、念処経が根拠となっている色彩が強い。しかしそれでは四聖諦がまるで、仏教に帰依していない人を、これから仏教に帰依させるための、教化用の説法として用いられていたような扱いである。

一応、教学的には、四聖諦は、最終的な悟りに際して、瞬時に「認識されるもの」という扱いで整合性を図っているようであるが、無理があると思う。四聖諦そのものが釈尊の提示した仏道修行の枠組みであり、もっとも素朴かつ純粋で、基本的・最重要なものではないかと思う。

仏教の奥義が四聖諦から縁起へと転換される

馬場の論文の主題は、ブッダゴーサによる仏教思想の基礎の変更を追うことなので、スリランカの仏教がどのように変遷し、それがどこに起因するのかという順序で論考を深めている。勘違いするべきでないのが、ブッダゴーサの上座部仏教では、四諦三明説から縁起三明説に変わっているからといって、その変更が「ブッダゴーサによって(オリジナルに)なされた」という話ではないという点である。

律と経とで説かれた三明説は、スリランカの上座部大寺派において変容をとげる。後夜に認識する対象が、前者では〈四諦〉なのに対し、後者では〈縁起〉に転換しているのである。〈縁起〉の認識を組み込んだ三明説は三蔵に確認できないため、明らかに後夜の認識対象が改変されたものである。

この三明説は、4 世紀頃(おそらく 4 世紀中頃、遅くとも 5 世紀初頭)に成立した『島史』に確認できる。『島史』はブッダの伝記から説き起こしてスリランカの歴史を語る作品であり、その冒頭にあるブッダの伝記部分で、パーリ経典に確認できない様式の三明説を説く。

目を具えた偉大な知者は、過去の生涯に関する知と天眼を獲得しつつ、〔初夜、中夜、後夜という〕夜の三分を過ごした。

それから、栄光あつき方は、後夜に条件の様相(縁起)を還滅して、順と逆に専心した。

執着の域において解脱した偉大な知をもつ者は、法を知り、完全に知って、放棄と道の修習を教授した。

偉大な牟尼は、最上の一切知を悟った。

〔そこで〕「ブッダ、ブッダ」という名称、呼称が、最初に生じた。

ここでは、夜の三分を過ごしたこと、過去の生涯に関する知と天眼を得たことを説くから、明らかに三明説が説かれている。ところが、『中部』等で説かれる三明説とは異なり、後夜における認識対象は四諦ではなく、縁起である。経典や律典には確認できない三明説が示されているのである。

「第 1 篇 第 1 章 第 2 節 「四諦」の認識から「縁起」の認識への転換」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p30-31)

馬場によってこの後さらに詳しく論考されていくが、縁起三明説自体は、スリランカ仏教界のブッダゴーサによって起ったものではなく、インドにおいて始まって既に仏教界全体に広く伝わっていたものであり、それをスリランカにおいてはブッダゴーサが特殊な形で『清浄道論』で“飼い慣らそう”とした。その結果が現代に至る上座部仏教の特殊な性格へとつながることになる。

  1. 『長部』大品第 14 経「大本経」(DN 14 Mahāvagga Mahāpadānasuttanta)
  2. 『相応部』因縁相応第 65 経「城邑経」(SN Nidānasaṃyutta 65 Nagarasuttanta)
  3. 『相応部』因縁相応第 4 経「毘婆尸仏経」(SN Nidānasaṃyutta 4 Vipassīsuttanta)

縁起型三明説は、縁起を認識・思惟してブッダに成ったとする点で、上記の経典で説かれる縁起成仏説と共通している。言わば、縁起型三明説は、四諦型三明説に縁起成仏説を接合した伝承なのである。したがって、ブッダゴーサが縁起型三明説を積極的に採用したことは、経典の四諦型三明説を否定したことを意味しない。実際、ブッダゴーサは経典の四諦型三明説を註釈する際に、第 3 明における四諦の認識を忠実に解釈している。

「第 1 篇 第 1 章 第 3 節 成仏伝承の結合」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p35-36)

本章の成果は、3 点に絞られる。第 1 に、経典の四諦型三明説は、上座部大寺派が作成した文献で縁起型三明説へ変容した。第 2 に、縁起型三明説は四諦型三明説と縁起成仏説の結合である。第 3 に、縁起型三明説は『島史』に確認できるため、ブッダゴーサの独創ではない。『島史』を改作したか、『島史』以外の古資料からの引用である。

「第 1 篇 第 1 章 第 4 節 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p37)

縁起法頌信仰

部派仏教において、四諦型三明説が縁起型三明説へと書き換えられていった原因は、縁起法頌信仰の影響のようだ(ただし、馬場は両者が関係しているとは述べているが、「縁起法頌信仰が縁起型三明に影響」と方向性まで踏み込んで明言することは避けている)。この縁起法頌信仰は歴史的に、釈尊の正統な弟子の流れを汲む比丘サンガのものではなく、在家信者のそれもどちらかというと、いわば仏塔観光業者たちによって培われたものである。

縁起型三明説が生まれた時期と場所は次のように推定できる。1、2 世紀に北インドで活躍したアシュヴァゴーシャの作品に確認できることから、縁起型三明説が成立した時期は遅くとも 2 世紀になる。仏伝作品の漢訳年代から推測しても、2、3 世紀頃(『修行本起経』)から始まって、5 世紀(『過去現在因果経』、『仏本行経』)、6 世紀(『仏本行集経』)、7 世紀(『方広大荘厳経』)に渡る。そして、遅くとも 7 世紀後半には、『ブッダの行い』が南アジア全域(五天)に普及していたことが、義浄の『南海寄帰内法伝』(T №2125)から知られる。

アシュヴァゴーシャ尊者は歌詞や『〔大〕荘厳論』を作成し、また『ブッダの行い』を作成した。〔『ブッダの行い』の〕大本は訳せば 10 巻以上あり、その内容は王宮から沙羅双樹まで如来の一代の仏法を述べ、みな集めて詩にしている。五天・南海で諷誦しないことはなかった。

7 世紀のインド仏教では『ブッダの行い』が標準的な仏伝の地位を確立していたわけだから、縁起型三明説は南アジアの広い範囲に流布していたことになる。したがって、アシュヴァゴーシャの生存年代、縁起型三明説を導入している仏伝作品の漢訳年代、そして、義浄の記録を総合して判断すれば、縁起型三明説は遅くとも 2 世紀に成立し、遅くとも 7 世紀には南アジアに広く流布していたことが分かる。

すでに先行研究に指摘されている通り、仏伝作品は仏塔信仰を背景として成立し、仏塔信仰と深い関わりがある。仏伝作品は律蔵の仏伝を基調としながらも、仏塔の周辺で仏伝を物語る人々が、それを大きく発展させたと考えられる。実際に、仏塔のレリーフに確認できる仏伝作品独自のエピソードはしばしば対応する。たとえば、悟りを開く直前のブッダが魔物の軍勢を斥けるエピソードは数多くの仏塔のレリーフに用いられているが、この物語は律蔵の仏伝にはもともと存在せず、仏伝作品に確認できる物語である。このことから類推すれば、律蔵の仏伝にはもともと存在しなかった縁起型三明説を仏伝作品に採用した人物は、おそらく仏塔の周辺で活躍していた〔おそらく「バーナカ」と呼ばれる〕人々だったと考えられる。

ところで、Boucher[1991]など、近年の研究によって、縁起法頌の信仰形態が解明されつつある。縁起法頌とは、もともとブッダの遺骨を納めるべき仏塔に、ブッダの遺骨に代えて(あるいは、ブッダの遺骨とともに)納める縁起を記した板である。インド大陸の諸地域から縁起法頌が納められている小塔が何千と発見されており、遺骨に代わって縁起法頌が信仰対象として広まったことが明らかにされている。興味深いことに、この縁起法頌信仰には仏伝作品で形成された三明説と符合する点がいくつもある。

第 1 に、変化の内容が共通する。三明説においては、もともと四諦だった仏陀の悟りの内容に縁起観察が組み込まれた。他方、縁起法頌も、仏塔の遺骨が置かれていた場所に納められるようになった。いずれの変化も、縁起を組み込むという点で共通している。

第 2 に、変化の背景が共通する。仏伝作品は仏塔の周辺で唱導された仏伝から生まれ、仏塔を伝承の場としている。そして、縁起法頌は仏塔に納めるものであり、仏塔信仰と深く関わっている。

第 3 に、変化の時期が共通する。縁起型三明説は遅くとも 2 世紀に成立して 7 世紀までにインド亜大陸に広く流布した。縁起法頌もほど同じ時期に成立し拡大した。2 世紀に作られた説一切有部のカローシュティー碑文に縁起法頌を確認することができるから、遅くとも紀元後 2 世紀頃には仏塔に収められた縁起法頌が確認できる。さらに、縁起法頌を納めた小塔の年代は 600 年から 1200 年に渡っていること、また、7 世紀後半にインドへ渡った義浄も『南海寄帰内法伝』でインドの仏教徒(西国法俗)が作る仏塔・仏像に納める「舎利」として「大師身骨」と「縁起法頌」との 2 種を挙げていることから、縁起法頌信仰は遅くとも 7 世紀までにはインド亜大陸に広く伝播していた。つまり、縁起法頌信仰もまた、縁起型三明説と同様、遅くとも 2 世紀に成立して 7 世紀までに流布していたのである。

こうした共通性に鑑みると、〈縁起型三明説〉と〈縁起法頌信仰〉は連動して起こった可能性が高い。果たして前者が後者へ影響したのか、後者が前者に影響したのか、それとも同時的に起こったのかは分からない。しかし、同じ時期に同じ場所で同じ縁起に関連して起こった 2 つの現象が全く関係を断絶していたと考えるよりも、両者がある種の関係性をもってインド全土に広まり、文献と文献外資料の両方にその足跡を残したと想定した方がはるかに自然だろう。縁起型三明説は、「仏塔におこった最後の長期的な出来事であり、インド仏教史の底にある大きな流れである」縁起法頌信仰とともに、部派を越え、地域を越えて、南アジアに流布したのである。

「第 1 篇 第 2 章 第 5 節 縁起型三明説と縁起法頌」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p52-54)

仏舎利の代わりに、縁起法頌を納めることで、仏塔の代用とするという発想はもはや、仏閣観光業を通り過ぎて、仏壇業者が一人歩きして商売を正当化するために、教義の側を都合の良いように改変するようなことかもしれない。現代の日本にも近い状況が既に古代インドの 2 〜 7 世紀にかけて起っていたわけだ。このような部派時代の仏教界の危機的状況に対する、ブッダゴーサ渾身の仕事が後に結実し、現代につながる上座部(大寺派)の磐石の礎となる。

仏伝作品の三明説に縁起の認識を組み込む成仏伝承の変化は、2 世紀から 7 世紀にかけて、部派を超え、地域を越えて、南アジアに広がった。縁起型三明説は律蔵中の仏伝には確認できず、律蔵から独立した仏伝作品に集中している。これら独立した仏伝作品は仏塔信仰と関わりが深いことから判断して、仏伝作品の縁起型三明説は、同じく仏塔を舞台にして南アジア全域に広がった縁起法頌信仰と連動したものだと考えられる。

「第 1 篇 第 2 章 第 6 節 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p54-55)
仏伝作品と仏塔信仰との関連性
変化の内容変化の背景伝播の時期
仏伝作品(縁起型三明説)〈縁起〉観察仏塔2 世紀から 7 世紀
仏塔信仰(縁起法頌)〈縁起〉法頌仏塔2 世紀から 7 世紀

縁起法頌信仰に汚染される部派時代仏教界における上座部大寺派(ブッダゴーサ)の姿勢

最終的には大乗仏教化へと至る、縁起法頌信仰によって腐敗しつつある部派仏教時代の仏教界において、ブッダ直系の教えを守る最後の砦である上座部仏教大寺派とそれを率いるブッダゴーサの登場である。

上座部大寺派は仏伝作品の縁起型三明説を導入しつつも、縁起型三明説の「縁起」を諸条件によって構成されたものとして解釈した。こうした上座部大寺派の思想的意義を理解するためには、部派仏教における無為法の定義を踏まえる必要がある。無為法(asaṅkhatadhamma)とは、条件によって作り上げられた有為法(saṅkhatadhamma)の対概念であって、永遠不滅の法である。この無為法の定義い関しては、部派によって大きな相違があった。

説一切有部は、択滅(涅槃)とともに虚空や非択滅を無為法に数え、『大毘婆沙論』が言及する「分別論者」は縁起を無為と見なしていた。『舎利弗阿毘曇論』によると、法蔵部は「縁」など 7 項目または 9 項目を無為としていた。化地部は「縁起」を含めた 9 項目を無為として認めていた。そして、大衆部も「縁起」など 9 項目を無為として認めていた。

大衆部と深い関係にあり、代表的な大乗経典である『八千頌般若経』は、虚空と同様に、十二縁起支のそれぞれが「尽きないこと」(akṣayatva)を説いた上で、「スブーティよ、このように縁起を観察することが菩提座に坐した菩薩大士に独自の特性であり、スブーティよ、このように縁起を観察する菩薩大士は全知者の知を獲得するのである」と説く。尽きないものの例として虚空を挙げていることから判断して、この教説はおそらく無為法の特徴を空の教説に応用したものである。さらに、不滅の縁起を成仏伝承に結び付けているため、ブッダの悟りの内容は、不滅の縁起であると捉えていたことになる。『八千頌般若経』と同じ内容は最古の漢訳である『道行般若経』に確認できるから、遅くとも 2 世紀には、縁起または縁起支を不生不滅なものとして捉える思想が生まれていたことが分かる。

このように多くの部派が涅槃以外の法をも無為法として定義し、縁起を不生不滅のものとして捉えていた。上座部大寺派も、無為法を拡大する流れから無関係ではありえなかった。もともと上座部大寺派の論蔵(『法集論』)では、無為法は涅槃に限定されていたが、蔵外文献である『ミリンダ王の問い』では、涅槃と同様に、虚空も行為・原因から生じないと説かれるから、虚空を無為法として捉えていたと考えられる。時代を下るにつれて、無為法拡大の波は、大寺派にも及んでいたのである。そもそも、上座部大寺派が伝持する『相応部』にさえ、「諸々の如来が出現しても、諸々の如来が出現しなくても、その界は確立し、法として確立し、法として決定し」ていると説く経典がある。この経文に基づき、縁起を過去・現在・未来に渡る永遠な法として解釈したとしても、不思議ではなかっただろう。

しかし、ブッダゴーサは、無為法の定義を涅槃以外に拡大しなかった。ブッダゴーサは「《無為法》とは涅槃である」と繰り返し述べ、涅槃と共に虚空や縁起を挙げることはない。ブッダゴーサの作品では、次のように、無為法は一貫して涅槃のみなのである。

《有為界》とは、諸条件によって作られた五蘊である。《無為界》とは、諸条件によって作られない涅槃である。

《有為》とは、諸条件が集合して作られたものである。それは五蘊の同義語である。《無為》とは、構成されたもの(有為)ではない。それは、涅槃の同義語である。

このように、ブッダゴーサは、部派を超えて広がっていた縁起型三明説を採用しつつも、無為法の定義を涅槃に限定した。彼にとって、永遠不滅の存在は涅槃のみに当てはまることなのであって、縁起はあくまで生じ滅する現象に過ぎない。ブッダは不生不滅な縁起(または縁起支)を悟ったという解釈はしないのである。この点で、上座部大寺派は、縁起を永遠の法として解釈した法蔵部・化地部・大衆部とは異なる選択をしたことになる。

「第 1 篇 第 3 章 第 3 節 第 1 項 無為法の定義」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p63-65)

以前、別の記事(👉 縁起説)で縁起法頌について論じたことがある。そもそも縁起法頌を「縁起の法」について述べたもの、と捉えること自体が間違いで、これはむしろ四聖諦(のうちの三諦)そのもので、「縁起の法」なんてものがそもそも錯覚、妄想じゃないのかと。なので、「(ブッダゴーサが)ブッダは不生不滅な縁起(または縁起支)を悟ったという解釈はしないのである。」という部分は大いに首肯する次第である。

分別論者、法蔵部、化地部、大衆部が、無為法の定義を拡大する過程で、縁起あるいは縁起支を不生不滅の法則(無為法)として解釈していたことは、縁起法頌信仰にも大きな影響を与えていたことが推測できる。実際に、大乗経典の『稲竿経』(Śālistambasūtra)は「縁起」を「無為法」として解釈して、「縁起」という「法の身体」としてブッダを見ることを説く。ブッダと法を同置する初期仏教以来の理解を前提として、ブッダは縁起という理法を身体とするという解釈が確立した。縁起法頌信仰は縁起という永遠の真理にブッダを重ねあわせることによって、仏塔信仰に新たな息吹を吹き込んだのである。

これに対し、上座部大寺派は縁起法頌信仰に対し否定的な態度をとっている。森祖道[2007]が明らかにしたように、上座部大寺派の視点で書かれた書、『小史』(Cūḷavaṃsa)や『部派概要』(Nikāyasaṅgraha)は、シラーカーラ(Silākāla)王が縁起法頌を刻んだ法舎利(dhammadhātu)を受容したことを批判的に描いている。ナーラダ[2002]によれば、縁起法頌信仰はスリランカにも入ってきていたから、上座部大寺派は縁起法頌信仰の存在を知りつつ、その正当性を認めなかったということになる。

ブッダゴーサは縁起型三明説を受容しつつも、ブッダが認識・思惟した縁起を諸条件によって構成される有為法として解釈している。この点を踏まえると、上座部大寺派が縁起法頌信仰を導入しなかった理由が理解できよう。縁起はブッダの観察対象であるとしても、あくまで無常な諸法なのであって、礼拝対象にはふさわしくないのである。

「第 1 篇 第 3 章 第 3 節 第 2 項 縁起法頌信仰と上座部大寺派」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p65-66)

大陸で流行する縁起法頌による“仏壇商法”をスリランカの大寺派は一蹴したのである。

ブッダゴーサは、『清浄道論』において縁起を縁起支(無常な諸法)として解釈した。続いて執筆した四部註では、『清浄道論』の縁起説を全面的に継承したため、頻繁に引用した縁起型三明説には、〈縁起(無常な諸法)を認識・思惟してブッダと成る〉という構図が生まれた。また、ブッダゴーサは、『清浄道論』において、『解脱道論』の四諦型三明説を削除して、『無礙解道』の縁起説による成仏を挿入し、ここでも〈縁起=縁起支(無常な諸法)の認識による成仏〉という図式を作り出した。

無為法の定義を拡大し、縁起または縁起支を永遠の法として解釈していた法蔵部・化地部・大衆部に対し、無為法を涅槃に限定した上で、〈縁起(無常な諸法)を認識してブッダに成った〉と成仏伝承を解釈した上座部大寺派は、一線を画すこととなった。上座部大寺派において縁起法頌信仰が斥けられたことも、こうした上座部大寺派の思想的立場と関連している可能性が高い。

「第 1 篇 第 3 章 第 4 節 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p66-67)

第 1 篇の結論

このように、部派仏教の時代には既に縁起法頌信仰による汚染は始まっており、おそらく、スリランカの上座部大寺派が確立した段階においてもその影響からは逃れられておらず、ブッダゴーサが基にした自派の古資料の段階で入り込んだ縁起型三明説までは斥けようがなかったのである(それをすると、自派の古資料に対する矛盾を敢えて冒さざるを得なくなるから)。次善の策として、縁起型三明説を取り入れつつも、反対に、(大乗も含む)他派では縁起を無為法と見なした上での縁起型三明説であったが、そこを骨抜きにして、有為法としての縁起についての縁起三明説にすることで、縁起法頌信仰の無毒化・飼い慣らしを図った形である。

第 1 篇では、律・経からブッダゴーサ作品に到るまでの成仏伝承の歴史を明らかにした。パーリ文献と北伝文献を調査して、律・経の成仏伝承(註釈以前)、ブッダゴーサ作品に用いられている先行資料(註釈古層)、先行資料に対するブッダゴーサの編集作業(註釈新層)を分析するという研究方法をとった。ここで、成仏伝承に関する「註釈以前」「註釈古層」「註釈新層」を整理しておこう。

註釈以前

バラモン教批判と出家主義が教説の基調となっている。古代インド社会では、「三明」(3 種の明知)とは、バラモン教の聖典である三ヴェーダを指していたが、仏教は同じ言葉の意味をまったく転換して用いた。バラモン教では現世や来世の幸福を願い、その願望を実現するために祭式を執行するのに対し、仏教は、出家修行者が最終的に四諦を認識して煩悩(漏)を滅し、ブッダと成ることを説いた(四諦型三明説)。あるいは、縁起を認識して、ブッダと成ることを説いた(縁起成仏説)。

註釈古層

四諦型三明説は、『解脱道論』などの作品に継承される一方、多くの仏伝作品で縁起型三明説へ転換された。仏伝作品の編纂者達は四諦型三明説に縁起成仏説を結合し、〈縁起〉の認識を組み込んだのである。縁起型三明説は、およそ 2 世紀から 7 世紀にかけて、説一切有部、大衆部など複数の部派に伝播し、南アジアに広く流布した。同じ時期に(2 世紀から 7 世紀にかけて)縁起法頌信仰が南アジアで爆発的に広まっており、両者は連動して起こった可能性が高い。上座部大寺派は、遅くとも『島史』を作成する時期(4 世紀後半、遅くとも 5 世紀初頭)までに、インド本土から縁起型三明説を受容した。ブッダゴーサも、この縁起型三明説を積極的に採用し、四部註で頻繁に引用した。

註釈新層

法蔵部、化地部、大衆部等の諸部派が縁起(縁起支)を無為法として解釈したのに対し、ブッダゴーサは、『清浄道論』で、縁起を生じ滅する縁起支(無常な諸法)として解釈して、縁起を無為法(永遠の法)とする解釈を斥けた。ブッダゴーサは、『解脱道論』で説かれていた四諦型三明説を『清浄道論』で削除して、『無礙解道』の縁起説と結びつけた成仏説を挿入した。また、四部註では、『清浄道論』の縁起説を全面的に継承した上で、縁起型三明説を頻繁に引用した。こうしたブッダゴーサの編集作業によって、成仏伝承は〈無常な諸法を認識してブッダと成る〉という内容に転換された。

上座部大寺派の成仏伝承に関する本篇の成果を表にまとめると、次のようになる。

縁起(無常な諸法)の認識 ⇒ ブッダに成る

「第 1 篇 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p69-70)
上座部大寺派の成仏伝承
註釈以前四諦型三明説四諦の認識による成仏
縁起成仏説縁起の認識による成仏
註釈古層縁起型三明説縁起の認識による成仏
註釈新層縁起型三明説縁起(無常な諸法)の認識による成仏

ブッダゴーサによる一連の編集作業によって、上座部大寺派は、他部派とは大きく異なる方向を明確に打ち出した。上座部大寺派は、諸部派に広がった成仏伝承の変容を蒙って、縁起型三明説を受容したが、無為法を涅槃に限定し、縁起を無常な諸法と定義した上で成仏伝承を解釈したため、無為法の定義を拡大して縁起または縁起支を永遠の法と見なした諸部派(法蔵部、化地部、大衆部)とは明確に対立することとなった。

「第 1 篇 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p71)

仏教の肯定的・神秘的側面を極限まで限定するブッダゴーサの修行論

大乗仏教になるともはや部派どころではなく、空論(仏教化されたマーヤー思想)によって神秘的側面で現実世界のすべてを塗り替え覆すところまで行き着くわけだが、その反対により極限まで神秘的側面を抑え込んだのがブッダゴーサに端を発する上座部(大寺派)仏教である。実在した生身のゴータマの教えに対する忠実度の点で最も保守的な上座部が、反面、合理主義の点で極めて現代的であるというのが面白い。

『清浄道論』を思想史的に考察するには、初期仏教と部派仏教の悟りに到る修行方法を俯瞰した Schmithausen[1981]の研究が役に立つ。Schmithausen は、初期仏教から部派仏教への思想的展開を〈否定的・知的〉な系統と〈肯定的・神秘的〉な系統へ分類した。前者は「無常・苦・無我」や「四諦」「縁起」を観察する系統であり、無常な存在を認識する修行方法が中心である。後者は「八禅を経て不死界へ達する」系統であり(『中部』第 64 経 マールンキャ大経)、涅槃界に対する肯定的・神秘的体験が中心である。

さて、Schmithausen は、ブッダゴーサが『清浄道論』で示した修行方法を〈肯定的・神秘的〉な系譜に位置づけている。ブッダゴーサにとって、涅槃はたんなる苦の抑止ではなく、実体的な到達対象であり、不死の領域だからである。Schmithausen がブッダゴーサの修行理論に神秘性を見出したのは正しい。ブッダゴーサの涅槃理解へ焦点を当てれば、Schmithausen が言うとおり、永遠な領域(涅槃)への到達は〈肯定的・神秘的〉な体験だと言える。

しかし、ブッダゴーサ作品の新古層分析を踏まえるならば、涅槃への到達にかんする記述は『解脱道論』に由来していることがわかる。修行の到達対象である涅槃を実体的に捉える解釈は、すでに『解脱道論』にあり、それをブッダゴーサが踏襲しているにすぎない。つまり、Schmithausen が指摘する〈肯定的・神秘的〉な体験は、『清浄道論』の古層に当たる。

ブッダゴーサが独創的なのは、本篇が縷々明らかにしたように、無常な諸法(苦・集・道諦)と永遠の法(滅諦)とを並行して観察する〈四諦の修習〉を解体し、涅槃に到るまでの修行を無常な諸法の観察に特化したことである。この点に焦点を当てれば、ブッダゴーサ自身が加筆した『清浄道論』の新層は〈否定的・知的〉な系統を代表していることになる。

説一切有部におけるアビダルマ系統の修行方法では、一切法を俯瞰できる統一的視点に立った上で、個々の法を認識するために、無常な諸法と永遠の法を並行して観察する。四諦の観察においても、永遠なる涅槃が滅諦だから、永遠の法を観察するという肯定的・神秘的体験は組み込まれている。説一切有部は、苦諦(有為法)に否定的知的認識の系統を集約させ、滅諦(無為法)に肯定的・神秘的体験の系統を集約させたのである。言わば、説一切有部のアビダルマ系統による四諦の認識と反復学習は、初期仏教以来の 2 系統を統合した立場を示している。

それに対し、ブッダゴーサは〈肯定的・神秘的〉体験を極めて限定した範囲(四道)にとどめ、それ以前の修行は無常な諸法を観察対象とする〈否定的・知的〉修行によって一貫させた。このような修行論を〈肯定的・神秘的〉と評するのは一面的な理解にすぎるのであって、むしろ、肯定的・神秘的体験を最終局面に限定することによって、〈否定的・知的〉修行を最大限に拡大した点に彼の独自性を見る必要がある。

「第 2 篇 第 3 章 第 2 項 「肯定的・神秘的」体験と「否定的・知的」認識」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p130-131)

元々は、滅諦は苦の抑止を指していた

これは上座部大寺派(ブッダゴーサ)の責めによるところではなく、スリランカで上座部が始まった段階で既に部派仏教において一般的になっていた変容なわけだが、初期仏教では滅諦は「単なる苦の抑止」だったのが、「滅諦=涅槃」と解釈されるようになり、一方で「涅槃=無為法(永遠の法)」という定理から、三段論法的に「滅諦=無為法」という結論となった。これ(「滅諦=涅槃」)が、個人的には誤読(エラー)の根だと思うのだが、まあその話は別の機会に譲るとして、「滅諦=無為法」という結論をベースに(それに疑義を挟むことはせず)、そこから生ずる諸々の問題をどうにか抑えようとする最善の解としてブッダゴーサが採ったのが、四聖諦を修業の根幹から外し、有為法(無常な諸法)だけを観察対象とする修行体系として再構築したというわけである(無為法としての涅槃を観察対象とすることは、理屈的に破綻しているから)。

初期仏教以来、四諦中の滅諦は苦の抑止を指していたが、部派仏教の時代になると、滅諦はたんなる苦の抑止ではなく、永遠の法としての涅槃を指すようになった。説一切有部や正量部では、四諦の観察が修行の根幹を成していたため、四諦の修習は、無常な諸法(苦諦・集諦・道諦)を観察するとともに永遠の法(滅諦)を観察することを意味するようになった。ウパティッサの『解脱道論』も同様であり、無常な諸法と永遠の法との両方を観察する四諦の修習が修行過程の重要な位置を占める。

それに対して、ブッダゴーサは『解脱道論』の基本的な枠組みを一方で継承しつつも、他方では、新たに「3 種の完全知」を導入して修行体系を再構築した。『清浄道論』では実質的に四諦の観察を取り除き、「諸行(無常な諸法)を対象とする観察」を修行体系の軸に据えて、他部派と理論的に決別し、大寺派独自の修行体系を確立したのである。

ブッダゴーサは、『清浄道論』の後に著した四部註でも、『清浄道論』の修行体系を全面的に承認しているから、この思想的立場は、『清浄道論』と四部註で一貫している。これらの作品によって、ブッダゴーサは、上座部大寺派の基本思想を決定することとなった。

「第 2 篇 第 3 章 第 3 項 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p131-132)

第 2 篇の結論

本来は四聖諦に基く修行論が正しかったのだが、時代が下ると滅諦=涅槃という語義で読まれることで、却って矛盾を孕むこととなり、ブッダゴーサは、四聖諦を修行の結果覚知される対象とし、修行自体の観察対象として代わりに「諸行を対象とする観察」を前面に押し出すという解決策を採らざるを得なかった。

第 2 篇では、『長部』戒蘊品から『清浄道論』にいたるまでの修行論の発展過程を考察し、上座部大寺派における修行体系の成立過程を解明した。『長部』戒蘊品と『解脱道論』とを比較して、前者が後者の祖型となっていること(註釈以前)を指摘するとともに、『解脱道論』と『清浄道論』とを比較して、前者を後者が踏襲した部分(註釈古層)を抽出し、その上で、ブッダゴーサが行った編集作業(註釈新層)を分析するという研究方法をとった。本篇の結論を、時系列に沿って再構成しよう。

註釈以前

バラモン教批判と出家主義が基調となっている。〈四諦型三明説〉から発展した『長部』戒蘊品の修行論は、出家修行者が戒と 4 段階の禅定に基づき、5 種の神通を得、四諦を認識して煩悩(漏)を滅する過程を説く。この修行方法は、漏(煩悩)の滅尽を目指しており、特定の願望や意思を実現するために祭式を執行するバラモン教に対する批判となっている。

註釈古層

説一切有部や正量部では、四諦説は修行体系の中核となっていた。涅槃を指す滅諦は不生不滅の法(無為法)として解釈されたため、四諦の観察は、無常な諸法(有為法=苦諦・集諦・道諦)と永遠の法(無為法=滅諦)の並行観察を意味した。7 世紀後半の義浄の記録によれば、部派も、大乗も、みな四諦を修習していた。インド仏教(少なくとも、説一切有部と正量部)では、ひろく四諦を修行の基本にしていたと考えられる。

『解脱道論』は、『長部』戒蘊品の修行論を踏まえつつ、4 種の「戒」(比丘戒・比丘尼戒・沙弥(尼)戒・在家戒)、『分別論』の「禅定」定義、「転法輪経」や『無礙解道』の「四諦」説を組み合わせた修行体系を編み出した。説一切有部と同様、『解脱道論』でも、無常な諸法(有為法=苦諦・集諦・道諦)と永遠の法(無為法=滅諦)を含む四諦の修習が修行体系の重要な核を成していた。ブッダゴーサは、『解脱道論』の大綱を模倣して、「戒 ⇒ 四禅 ⇒ 五神通 ⇒ 四諦の正しい覚知」という構成を継承した。

註釈新層

ブッダゴーサは、『義釈』にある「3 種の完全知」という概念を採用し、「3 種の完全知」に沿って『解脱道論』の智慧修習論を改変し、『清浄道論』独自の修行体系を構築した。その結果、「四諦」の観察に代わって、「諸行(無常な諸法)を対象とする観察」が修行体系の中心に位置づけられた。彼は、〈無常な諸法(苦諦・集諦・道諦)と永遠の法(滅諦)の並行観察〉を斥け、〈無常な諸法(諸行)の観察による永遠の法(涅槃)への到達〉という修行体系を再構築したのである。ブッダゴーサは先行資料(『解脱道論』)と批判的に対決することを通して、同時代の諸部派とは異なる修行体系を打ち立てた。

フッダゴーサの編集作業によって生まれた『清浄道論』の修行理論は、次のように図示しうる。

諸行(無常は諸法)を対象とする観察 ⇒ 阿羅漢に成る

『清浄道論』の執筆後、ブッダゴーサは四部註を編纂し、修行方法に関しては『清浄道論』を参照するよう指示した。ブッダゴーサが打ち立てた思想は、『清浄道論』と四部註を通して、その後の上座部大寺派に決定的な影響を与えたのである。本篇の成果を表にまとめると、次のようになる。

「第 2 篇 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p133-135)
上座部大寺派の修行論
註釈以前戒/四禅/五神通/四諦の認識
註釈古層戒/四禅/五神通/瞬間的な四諦の正しい覚知
註釈新層戒/四禅/五神通/諸行を対象とする観察/瞬間的な四諦の正しい覚知

ブッダゴーサの編集作業によって、上座部大寺派は独自の修行体系を確立した。説一切有部や正量部は四諦を中心とした修行体系を作り上げたのに対し、上座部大寺派は諸行の観察を中心とした修行体系を完成した。これは、他部派(少なくとも、説一切有部と正量部)と上座部大寺派の修行論において最大の相違点である。

「第 2 篇 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p135)

第 3 篇の結論

第 3 篇では、パーリ正典の成立史を検討した。ブッダゴーサ作品における多様な三蔵記述を大寺派以外の諸部派の資料と比較することによって、上座部大寺派以前の律・経(註釈以前)を想定しつつ、三蔵に言及する先行資料(註釈古層)を抽出し、先行資料を前提としてブッダゴーサが行った編集作業(註釈新層)を分析するという研究方法をとった。ここで明らかにした内容を時系列に沿って再構成しよう。

註釈以前

律蔵の経分別・犍度部と経蔵の四部は、法蔵部(『四分律』)、化地部(『五分律』)、説一切有部(『十誦律』『根本説一切有部律』)、大衆部(『摩訶僧祇律』)、上座部大寺派(四部註の古資料)の全てに共有されているから、大寺派成立以前から継承されたものである。また、三蔵全体の冒頭に律蔵を置き、律蔵の中でも波羅提木叉を冒頭に置く旧三蔵の構成は、法蔵部(『四分律』)、化地部(『五分律』)、説一切有部(『十誦律』)、上座部大寺派(四部註の古資料)といった上座部系に共通しているから、三蔵の中でも波羅提木叉を最も尊重する配列はインド本土から継承したと考えられる。

註釈古層

インド本土における諸部派は〈経典の改編〉〈経典の制作〉〈経典の編纂〉を行っていた。北伝四阿含は改編されて、四部に対応する内容のみならず、四部以後に編纂されたパーリ文献(後期正典、準正典、註釈文献)に対応する内容を収録した。北伝の諸部派では「ブッダの言葉」を増広したのである。

上座部大寺派においても同じ動向を確認できる。ブッダゴーサ作品から遡れる最古の三蔵は、律蔵(経分別・犍度部・付随)・経蔵(四部)・論蔵(七論)から成る(これを「旧三蔵」と呼ぶ)。しかし、上座部大寺派では、旧三蔵の成立後も、旧三蔵の外部に「ブッダの言葉」が付加・増広されていった。経蔵が 4 部構成から 5 部構成へと再編されるのに伴い、旧三蔵の外部で蓄積された「ブッダの言葉」は、第 5 の「小部」へ組み込まれて、新三蔵を形成した。ただし、三蔵のどこに外部の「ブッダの言葉」を編入すべきかと言う点では、伝承者の間で見解が分かれていたようである。ブッダゴーサは、旧三蔵に触れる古資料を自らの作品に収録した。

註釈新層

ブッダゴーサは、古資料を通じて旧三蔵の構成を認識していたが、自らの思想に重要な役割を果たしている『義釈』『無礙解道』を正典として定めるために、経蔵を 5 部構成とする新三蔵の定義を採用した。この点で、ブッダゴーサは古資料と批判的に対決しており、三蔵の内容を拡大する側に立っている。しかし、それと同時に、「全てのブッダの言葉」を定義し、〈全てのブッダの言葉=一味=法と律=初・中・後=三蔵=五部=九分教=八万四千法蘊〉という等式を定めて、「ブッダの言葉」と認められる文献を詳細に列挙した。その結果、新三蔵の外部に「ブッダの言葉」が認められなくなり、新たに「ブッダの言葉」を三蔵へ編入できなくなった。この定義は彼以後の注釈化にも踏襲されて、上座部大寺派における正典の規範となった。

正典の確立に関して本篇が明らかにした内容は、次の表にまとめられる。

「第 3 篇 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p220-222)
上座部大寺派の三蔵
註釈以前律/経(経分別・犍度部/四部)
註釈古層旧三蔵(経分別・犍度部・付随/四部/七論)
註釈新層新三蔵(経分別・犍度部・付随/四部・小部/七論)=全ての仏陀の言葉

ブッダゴーサの編集作業の結果、旧三蔵の定義は実質的に斥けられ、新三蔵の内容が「全てのブッダの言葉」に定義された。上座部大寺派は、「全てのブッダの言葉」を定義し、その範囲を限定したことによって、他の仏教諸派とは大きく異なる道を歩み始めた。大乗仏教が次々と新たな経典(ブッダの言葉)を制作し、上座部無畏山寺派や上座部祇多林寺派は大乗経典を受容していたのに対し、上座部大寺派は正典を確定して、大乗経典を斥ける立場を取ったのである。従来の仏教研究では、「部派」と「大乗」という枠組みを設定し、上座部大寺派は「部派」の側に入れられていた。しかし、経典の制作という視点から見る限り、上座部大寺派は、正典を確立したという点で、経典を制作し続けた他部派や大乗仏教とは根本的に異なっている。ブッダゴーサ以後の上座部大寺派は、仏教他派に比べて、正典宗教の性格を帯びたのである。

「第 3 篇 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p222)

本書全体の結論

基が馬場の博士論文なので、本書の構成的に、3 篇構成となっていて、それぞれがこの結論でまとめられている、1: 成仏伝承、2: 修行体系、3: 正典、に関する論考内容であり、本書が提示している主旨を知るためには、本書のこの部分だけを読んでも差し支えない。各篇の論考の内容に興味がある場合に、各篇を参照すればよいと思う。

本書は、ブッダゴーサの作品を〈成仏伝承〉〈修行体系〉〈正典〉という 3 つの主題に沿って検討して、上座部大寺派教学の形成過程を解明した。ブッダゴーサ作品の中からブッダゴーサが用いた先行資料(註釈古層)を抽出し、先行資料が前提とする経典伝承(註釈以前)と先行資料に対してブッダゴーサが行っている編集作業(註釈新層)を分析するという研究方法をとった。これにより、上座部大寺派における思想形成について〈註釈以前〉〈註釈古層〉〈註釈新層〉の 3 段階を想定できる。ここでは、ブッダゴーサ作品から浮かび上がった各段階の特徴を要約して、上座部仏教が思想を形成する過程をまとめる。

I. 註釈以前

古代インド社会のバラモン教では、三ヴェーダを尊重し、現世や来世における幸福を願って祭式が執り行われた。しかし、仏教は、バラモン教を批判し、三ヴェーダを言い換えて、3 種の明知を説いた。この三明説では、出家修行者が四諦を認識して煩悩(漏)を滅する。この様式の三明説は、上座部大寺派のみならず、法蔵部(『四分律』)、説一切有部(『中阿含』)にも確認できるから、インド本土に遡る。煩悩の滅を目指す出家主義は、上座部仏教における出家主義の起源となった。

同様の出家主義は三蔵の配列からも読み取れる。古資料における旧三蔵への言及では、三蔵の冒頭に律蔵が置かれ、律蔵の冒頭に波羅提木叉が置かれており、波羅提木叉が存続する限り、仏教が存続するという趣旨が説かれる。波羅提木叉は出家者にのみ適用されるから、三蔵の配列にも、出家を尊重する立場は明瞭である。上座部大寺派のみならず、法蔵部(『四分律』)、化地部(『五分律』)、説一切有部(『十誦律』)も三蔵の冒頭に律蔵を置き、律蔵の冒頭に波羅提木叉を置いているから、波羅提木叉を最重視する配列は、インド本土にまで遡る。

この段階では、三明説や三蔵の配列が出家重視の特徴を示しているにしても、体系立てて説かれておらず、様々な相違を孕んだまま纏められている。これらの諸伝承をどう受容するかは、次の時代の課題となった。

II. 註釈古層(ブッダゴーサが用いた古資料)

インドの諸部派は、体系化されていなかった諸伝承を再編・統合し、新たな作品を制作するようになった。一方では、ブッダの生涯に関する伝承をまとめた仏伝作品が成立し、他方では、様々な、瞑想方法や教理伝承を体系化した修行論が発展した。また、諸伝承を再編・統合して、「ブッダの言葉」と認められた作品が次々と成立した。ブッダゴーサ作品に収録されている古資料には、これら諸部派と同様の傾向を確認できる。

第 1 に、仏伝作品は、遅くとも 2 世紀には、四諦型三明説に縁起成仏説を組み合わせて新しい様式の三明説(縁起型三明説)を作った。縁起型三明説は、2 世紀から 7 世紀にかけて、説一切有部、大衆部など、部派を横断して南アジア全体に拡大した。ちょうど時を同じくして、縁起法頌に対する信仰が爆発的に広まっており、縁起型三明説の流布と連動した現象だったと考えられる。上座部大寺派では、『島史』の時代(4 世紀)までに縁起型三明説を受容し、ブッダゴーサは好んで四部註に取り入れた。

第 2 に、説一切有部では、アビダルマの発展によって、法(ダルマ)の分析的思考が進められ、四諦の観察は修行体系の中核に位置づけられることとなった。この修業法によるならば、無常な諸法(有為法=苦・集・道諦)と永遠の法(無為法=滅諦)は並行して観察されることになる。説一切有部以外にも、正量部など、諸部派で四諦を中心とする修行体系が説かれた。『解脱道論』もその一つである。『解脱道論』は、『長部』戒蘊品の修行過程を骨子としつつ、そこに「転法輪経」や『無礙解道』の四諦説を組み合わせた点に特徴がある。ブッダゴーサは『解脱道論』を『清浄道論』の下敷きとし、『解脱道論』の修行体系の基本的な特徴をそのまま継承した。

第 3 に、諸部派は三蔵をまとめた後も、経典本文の改編、経典の制作、経典集の編纂を行っていた。こうして作成された経典・経典集は、「ブッダの言葉」として認められて、三蔵へ編入される作品も多かった。古資料作成期の上座部大寺派では、律蔵(経分別・犍度部・付随)・経蔵(四部)・論蔵(七論)から成る旧三蔵が成立していたが、その後も、旧三蔵の外部で「ブッダの言葉」として承認された文献が蓄積されていった。遅くとも 5 世紀までには、経蔵を 4 部編成から 5 部編成へ再編し、これらの文献を新三蔵へ組み込んだ。インド本土の諸部派と同様、古資料作成期の上座部大寺派は、「ブッダの言葉」を増やし続けていたのであり、複数の古資料を引用したブッダゴーサの作品には、旧三蔵に言及する伝承が複数採用されている。

以上のように、多様な伝承の再編・統合は、かえって新たな作品を生み出すという逆説的な結果をもたらした。新たに成立した作品によって、さらに新たな作品の作成が促されたのであり、大乗仏教は、まさにこうした土壌の中から生まれた経典制作運動だったと考えられる。そして、古資料作成期の上座部大寺派も、伝承を再編・統合する諸部派の動向に追従していたのである。伝承を体系化して、上座部大寺派に固有の教学を打ち立てるのは、次の時代の課題となる。

III. 註釈新層(ブッダゴーサの編集作業)

5 世紀前半、おそらく 410 年代から 430 年代に、ブッダゴーサはスリランカで『清浄道論』と四部註を著した。ブッダゴーサは、古資料を大量に用いつつも、古資料と批判的に対決し、上座部大寺派正典の内容と構成を確定して、上座部大寺派の思想的独立を成し遂げた。ブッダゴーサの編集作業を再構成すると、次のようになる。

第 1 に、成仏伝承に関して編集作業を行った。法蔵部、化地部、大衆部といった諸部派が縁起または縁起支を無為法(永遠の法)として解釈したのに対し、ブッダゴーサは、『清浄道論』で、縁起を生じ滅する縁起支(無常な諸法)として解釈した。さらに、『清浄道論』では、四諦を修習して成仏したという『解脱道論』の記述(四諦型三明論)を削除して、『無礙解道』の縁起説と結びつけた成仏伝承を挿入し、四部註では、『清浄道論』の縁起説を継承しつつ、縁起型三明説を頻繁に引用した。その結果、ブッダゴーサ作品における成仏伝承は〈縁起(無常な諸法)を認識してブッダに成る〉という内容へ転換された。

第 2 に、修行体系に関して編集作業を施した。説一切有部や正量部といった諸部派が四諦観察を中心とした修行体系を構築したのに対し、ブッダゴーサは、『義釈』から「3 種の完全知」という概念を導入して、四諦観察を骨子とする『解脱道論』を換骨奪胎し、諸行(無常な現象)を観察対象とする修行体系を構築した。これによって、〈修行者が諸行(無常な諸法)を観察して、涅槃(永遠の領域)に達する〉という修行体系が完成した。ブッダゴーサは、四部註で様々な修行方法に言及するが、詳細は『清浄道論』を参照するよう説き、その修行理論を正当化した。

第 1 と第 2 の編集作業を通して、ブッダゴーサは、悟りに関連する諸伝承を「無常な諸法(縁起・諸行)を観察して悟りを開く」とい構図の下に体系化することに成功した。彼のこのような編集作業を可能にした教学的根拠は、『無礙解道』と『義釈』にある。ブッダゴーサは四部註で最初に著した『長部註』の冒頭で、古資料由来の第 1 結集記事を収録したが、ここで結集される経蔵は四部のみであり、『無礙解道』と『義釈』が収録される小部は結集されない。これは、『無礙解道』と『義釈』によって自らの思想体系を築いたブッダゴーサの思想的根拠を揺るがしかねない内容である。

そこで、第 3 に、ブッダゴーサは正典に関する編集作業を行った。第 1 結集記事の直後に長部誦者や中部誦者の見解を引用して、『無礙解道』『義釈』等を三蔵に組み込むべきだという主張を紹介した。それに続けて、「全てのブッダの言葉」を定義し、小部を経蔵に組み込んだ新三蔵の定義を記した。これにより、『義釈』と『無礙解道』は正規の経典として位置づけられたと同時に、新三蔵の外部に「ブッダの言葉」の存在は認められなくなった。その後、旧三蔵に関する古資料を四部註に載せる場合も、律・経・論蔵の外部にブッダの言葉が存在することを認める見解を斥けつつ収録した。

ブッダゴーサは、成仏伝承にも、修行体系にも「無常な諸法(縁起・諸行)を観察して悟りを開く」という構造を組み込み、その典拠となった『義釈』と『無礙解道』をパーリ正典に位置づけるために、新三蔵を「全てのブッダの言葉として定義したのである。

このように、ブッダゴーサ作品の分析を通し、ブッダゴーサが、律・経の伝承(註釈以前)を承けて作成された先行資料に基づきつつも(註釈古層)、上座部大寺派に独自の思想的立場を打ち立てたこと(註釈新層)が明らかになった。ブッダゴーサの編集作業から浮かび上がる思想は、インドの仏教諸派とは原理的に対立するものである。ブッダゴーサは、縁起または縁起支を永遠の法とする解釈(大衆部、化地部、法蔵部)に対して、縁起=縁起支を無常な諸法として成仏伝承を解釈した。無常な諸法と永遠な法の観察を核とした修行体系(説一切有部、正量部)に対して、無常な諸法を観察対象とした修行体系を打ち立てた。そして、「ブッダの言葉」の制作運動(大乗仏教)に対して、「全てのブッダの言葉」を定義し、パーリ正典を確定した。彼は、古資料を批判的に編集することによって、他の仏教諸派とは異なる上座部大寺派独自の思想的立場を確立したのである。

ブッダゴーサの編集作業によって確立した上座部大寺派の思想的立場を当時のインド仏教と対比すると、次のような鮮やかな対照を成している。

「結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p257-261)
上座部大寺派対立する他の仏教諸派
成仏伝承縁起(無常な諸法)の観察大衆部・化地部・法蔵部
修行体系諸行(無常は諸法)の観察説一切有部・正量部
正典「全てのブッダの言葉」としての新三蔵大乗仏教

ブッダゴーサ以後、上座部大寺派はブッダゴーサの作品を尊重したため、その思想は上座部大寺派の正統的な教学を代表することとなった。ブッダゴーサ以後の註釈家たちは、縁起を縁起支(無常な諸法)として解釈した上で縁起型三明説を継承し、「諸行の観察」を中心とする修行体系を築いた『清浄道論』を参照するよう説き、経蔵を 5 部構成とする正典規定を継承した。ブッダゴーサの編集作業は見事に効を奏したのである。現存する上座部仏教の思想的原型は、体系的な思想を確立して正典の範囲を明確に定めたブッダゴーサの作品にこそ見出せる。

こうして、上座部大寺派は、インドの主要部派(大衆部、化地部、法蔵部、説一切有部、正量部)や大乗仏教と思想的に袂を分かち、独自の立場を築き上げた。上座部大寺派は、12 世紀になると、大乗仏教を受け入れていた上座部無畏山寺派と上座部祇多林寺派を排してスリランカの仏教界を統一し、さらにスリランカから海外へ進出して、東南アジア大陸部の主要宗教となる。ブッダゴーサの貢献によって、独自の思想を構築し、正典を確立した上座部大寺派は、スリランカと東南アジア大陸部に広がる「上座部仏教」への道を歩み始めたのである。

「第 3 篇 結論」(馬場紀寿『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』、東京、春秋社、2008 年、p262)

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