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龍神を祀る拝み屋のひいばあさん

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411 :本当にあった怖い名無し:2009/09/30(水) 19:34:54 ID:tQfI0IyeO 昨日の続き 最初からいっきに投下 俺のひいばあさんは大正生まれなんだけど、まだすげー元気なんだよ。 近所の人から○○の神様 (○○は地名)って呼ばれてる。 まぁ、民間の拝み屋なんだけど、すごい話しが2つある。 それを携帯から投下しるよ まだひいばあさんが若い頃、近所で猫や犬、カラスやらが大量に死ぬ事件が起きたんだと。 村の人逹は気味が悪いとひいばあさんに相談しに来た。 ひいばあさんは最初、霊的な事じゃなく、人的な物だと思ってんだと。 誰かが毒的な物を撒いたんじゃねーかと。 一週間過ぎた頃には野良犬も野良猫も見かけなくなったんだと。 ひいばあさんはその事をあんまり気にしないで、家から歩いて少し離れた所にある役場まで行った。 その途中に、塚を潰して用水路を作る工事現場に遭遇。 その工事現場からとても禍々しい雰囲気が漂ってる。 ひいばあさんは、なんだあれは?と思い、あまりにも圧迫感があって来た道を引き返して家に戻ったそうです。 それでその日は気分が悪くて立てなくなり、家で寝たそうです。 その時ひいばあさんは、ただ事じゃない。あそこの塚は何かを封じ込めてたんじゃないか。 って思ったそうです。 次の日に、その工事現場からボロボロの小さな石棺と銅でできた四角い何かが出てきたそうです。 その時に工事現場で作業していた人夫が毒気にやられて、倒れたそうです。 それで村長の息子さんがひいばあさんに相談しに来て、ひいばあさんは現場に行くことになりました。 ちなみに毒気にやられた人は、その日のうちに死んでしまったそうです。 俺は、マジかよと疑ってたんだが、近所の人逹も知ってるらしく、なによりその石棺と銅でできた何かは家の蔵にあるらしい。 石棺の説明は後でするけど、銅でできた何かは、本当にに何かわからないそうです。 414 :本当にあった怖い名無し:2009/09/30(水) 19:42:17 ID:tQfI0IyeO 現場に着いてとりあえず調べた。 こんぶみたいなのは髪の毛がくっついてできた物で、少なくとも3人分の髪の毛だそうで、多分平家の落武者の物らしい。 ひいばあさんは霊力が弱いからかわからんが、普通の霊能

ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」

ジャータカをデジタル写経していて、ちょっとショックを覚えた話に遭遇した。147 話の「はりつけにされた男」である。 ジャータカで、来世で地獄行きになるケースというのは、大抵が、デーヴァダッタの役どころであり、要するに仏敵レベルの相当極端な、ある意味分かり易い極悪人の悪業の場合である。 そうではなくて、一般的な人々で来世に地獄行きになるケースというのがあまり挙げられていないように思われる。また、一般的な悪人の例が出ても、その生で悪い結果になって命を落とすとかであり、死んでさらに来生で地獄行きになった、という表現がされているのは(デーヴァダッタや異教徒のような仏教教団と敵対する分かり易い極悪人の場合を除いて)、あまり憶えがない。 ところが、このジャータカ 147 話では、一般人の男が、女(妻)への愛執のあまり、女に望まれるままま、王の庭園から花を盗もうとする犯罪を犯し、死罪となる。その結果、単に男は現生で刑死するばかりでなく、来生で地獄に落ちた、とされているのである。 もちろん、所詮はジャータカであるし、ただ一つの話で、こうだったからといって、それを基準に一般化して適用しようとするような重要視の仕方をするようなものではないかもしれない。しかし、この話が、特に、三蔵やジャータカの中で異質なもの、異端な考えを述べたもの、というものでない限り、基本的には、仏教の考え方を敷衍して語られている物語の一つであるはずである。 つまり、一般論的に、愛欲というものは、地獄行きの原因となる、有力な業だということになる。 これまで、自分は、地獄行きというのは、瞋恚(怒り)が原因という風に単純に考えていたので、ぱっと見、怒りとは無縁そうな、女への愛執を抱きつつ、処刑されて死にゆく男が、地獄行きになるという、この話のケースに、ちょっと不意打ちを喰らったような気持になったのである。 だって、世間のメロドラマなんて、「(あの人への)愛のためになら死ねる」なんてのがほとんど金科玉条みたいではないか。あまりにも、地獄行きが溢れ返っている状況ではないか。 そもそも、このジャータカでは、男自身は犯罪行為を渋るものの、愛する妻にせがまれて、結局は、道徳観念よりも、愛する者を喜ばせることを優先してしまうのである。つまり、「愛は盲目」という状態が、地獄行きをもたらしたのである。

さくらインターネットの送信メールの SPF レコードの設定

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前日まで問題なく Gmail 宛てに送信できていたのが、先程突然、SPF レコードの未設定によるエラーメッセージが返ってきて、独自ドメインからの送信メールが Gmail 側で拒絶された。 独自ドメインの管理は muumuu-domain で、メールサーバーはさくらインターネットで運用するという、やや変則的な使い方をしているので、自前でムームー DNS の設定を行う必要がある。 さくらインターネット公式ヘルプ は、本来、独自ドメインの管理もさくらインターネットで行っている場合の説明だが、それでもそこに掲載されている、DNS の TXT レコードの記述を使えば、問題なく設定できたようで、Gmail で受信拒否されなくなった。 サブドメイン 種別 内容 備考 ●●●.sakura.ne.jp A ●●●.●●●.●●●.●●● さくらのメールサーバーの IP アドレス (この設定が適切なのか、必要なのか自信なし) MX ●●●.sakura.ne.jp 独自ドメイン宛てメールを上記メールサーバーへ TXT v=spf1 a:www***.sakura.ne.jp mx ~all www***.sakura.ne.jp と、 MX レコードのサーバーからの 送信の正当性を認証し、 それ以外についてはグレー扱いとする (SoftFail: 認証外のメールにも、 本人から発信されたスパムではない 正当なメールが混じっている場合もある)。

梵網経の 62 邪見

梵網経のデジタル写経が終ったので、62 の邪見を表にして整理してみた。 スマナサーラ長老の“他宗教・他宗派イジり”に刺激されて、この際、62 見で網羅し(網で捕え)たいと思った次第。 基本的に、経典および、註釈にあるものはできるだけそのまま使い、それ以外のものは自分で適当に埋めた。 根拠 我と世界に対する見解 備考 過去生 常住論 1 〜 数十万生の記憶 常住 現代でもよくある俗世間的な輪廻転生思想 1 〜 10 世界周期の記憶 10 〜 40 世界周期の記憶 推論による妄想 部分的常住論 1 つの過去生の記憶 大梵天は他者と違い常住 大梵天は創造神であり、他者はその被造物(一神教) キッダーパドーシカではない他の欲天は常住 不死の神々と、輪廻すべき生命の別がある(多神教) マノーパドーシカではない他の欲天は常住 推論による妄想 肉体は死ぬが、精神(魂=我)は常住 素朴なイデア論(プラトン)・アバター思想 有限・無限論 有限の禅定体験 世界は有限 宇宙物理・天文学 無限の禅定体験 世界は無限 有限・無限の禅定体験 世界は上下に有限、水平に無限 推論による妄想 世界は有限でも、無限でも、 上下有限・水平無限でもない 詭弁論 善・不善を知らない 間違っていたら嘘を言う羽目になる (戒)から明言しない 現代日本の世襲職業的宗教家 間違っていたら怒りを感じて心が乱れる (慚)から明言しない 間違っていたら詰問されて心を乱される (愧)から明言しない あの世(死後の世界)の有無 化生(霊的な存在)の有無 業報の有無 肉体死後のタターガタの有無 そもそも愚鈍・蒙昧だから まともな受け答えができない (見解の分類以前の問題) サンジャヤ・ベーラッティプッタ (現代日本の職業的禅坊主) 無因生起論 想の生起を遡ると 無想(有情天)に至る 我も世界も無因で出現した 我思う、ゆえに我あり、世界あり。 (デカルト以降の近現代的な自然科学観) 推論による妄想 アージーヴィカ教 あの世 有想論 色界禅定体験 遍の浄色そのもの、精神状態が我である 禅定至上主義 無色界禅定体験 無色界の精神状態が我である ニガンタ・ナータプッタ(推論妄想) 禅定至上主義

正念・正知

今、念処経で、研究中なのが、行住座臥の「威儀の部」のうち、行(歩行時)における正念・正知の実践である。本来は行住座臥の全てのあらゆる行動を通じて、一日中、念を継続し続けようとする目的なのだと思うので、そこから行の部分だけを取り出しても、本来の意図は満たしていないと思う。どちらかというと、次の「正知の部」の身体の動作を密に随観するものとのハイブリッドのようなものになるかもしれない。一方で「正知の部」ほど濃密にはやっていないと思う。おそらく、経行(いわゆる歩行瞑想)やスマナサーラ長老が指導されている物を動かす修行法などは「正知の部」に基くものだろう。 普通に、最寄り駅まで 15〜20 分程度歩くのに、特に歩き方を経行化するようなことはせず(というか社会生活上、公道でやるのは中々はばかられる)、普通のペースでスタスタ歩く。外形上は変えないで、その時の意識の持ち方だけを、随観でやる(正念・正知的に行う)という工夫である。 結果的に、これは、ウォーキングをやっている人たちの様子に近い。視線を真っ直ぐ前に据えて、一方で何か用事のことについて考え事をしながら歩いているわけでもなし、若い女性によくありがちだが、すれ違う人の視線を意識して目線を逸らしながらすれ違ったりするわけでもない。ただ、視線を真っ直ぐ前に据えて、スタスタと一定のペースでロボットのように歩く。 また、サングラスなどで眼の表情が隠れていると、人に奇異な感じを与えることを、さらに緩和できるかもしれない。 この時、随観状態(=正念・正知のつもり)を確立するコツを工夫している。阿羅漢でもない、我々凡夫は、無我状態に至っていないのであるから、基本的に自我意識があり、その自我意識の「中から」、外界を観て、経験・行動している。随観というのは、この外界を見るポイント(要するにこれぞ「念」だと思う)を、この自我意識の外縁ギリギリまで寄せて置くのである。そして自我意識の「中から外へ」意識を向けるのではなく、外縁の表面、外側から自分を観る(把握する)のである。これが僕の随観感覚である。 ゲームの経験がある人ならば話はわかりやすいのだが、FPS(一人称視点の射撃ゲーム)では、マウスやアナログスティックのコントローラーで、視点をポイントする。そのポインターを中心に視線が動き、その視点に導かれて、移動するのである。 スマナサーラ長

西澤卓美さんの背中──在俗信徒として

テーラワーダ仏教を応援しています という YouTube チャンネルがあり、そこの西澤卓美さんの ZOOM 法話を一通り視聴させていただいた。 これまで、スマナサーラ長老の数々の動画を浴びるように聞いていた流れもあり、どうしても、スマナサーラ長老の、邪見や妄想をバッサバッサ斬り捨てるような切れ味鋭い法話と比較して、質疑応答などに素人っぽさを感じてしまい、当初は物足りなさを感じざるをえなかった。 しかしよく考えてみれば、僕の稚拙な “法の推知” の真似事的な妄想として、スマナサーラ長老は阿羅漢かどうかというラインについていつも考えさせられざるをえないのに比して、西澤さんは、還俗されていることからも明らかに、阿羅漢という選択肢は失せる。つまり、預流者なのかどうか、というラインが問題になるべきなのである。スマナサーラ長老の徳との「比で」西澤さんの徳の「有無」を考えようとするべきではない。 僕は、先日、テーラワーダ仏教徒の友人に、ふと、「西澤さんのような在俗信徒が増えることが、今後の日本のテーラワーダ仏教にとっての、希望じゃないのか」と何気なくコメントしたのを思い出した。 僕は、昔、ゴータミー精舎にちょくちょく顔を出していた時期に、一度だけ、西澤さん(当時はコーサッラ=西澤長老)にお会いしたことがある。西澤さんも関係の深い、ウィセッタ・セヤドーの関係で、何か少し言葉を交した気がする。普段はゴータミー精舎で見たことのない顔の人々が、しかし大変熱心そうな人々(男性中心だった)が、西澤さんのアビダンマ講義を聞くために集まっていた憶えがある。袈裟に身を包んだ西澤さんは小柄で、小柄であること以上に非常に痩身で、大変真摯な修行者というイメージだった。 西澤さんの動画を何度か聞くうちに、興味本位で、西澤さんの悟りのレベルに関する噂話がないかと思い、検索してみると、 とあるブログ記事 に行きついた。西澤さんの著書『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』(サンガ、2014-11-01)に因んだ記事であった。そこでは、 サンガ出版の「ミャンマーのマインドフルネス」という本の中で、著者の西澤卓美師(元ウコッサラ長老)は、自分は悟っていないと受け取れるような告白をなさっている。 という気になるコメントを見つけたので、早速、同書を地元の図書館で探すと市内の別の図書

楽天モバイルに SIM を返却(官製ハガキ)

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楽天モバイルを解約したところ、SIM を返却しなければならないようなので、「官製ハガキ」で返送した。 梱包用の透明テープで貼り付けてポストに投函。 楽天モバイルの FAQ によると、返送せずに自分で破棄してもいいようなのだが、一方で解約時のメールには「返送しろ」としか書かれていなかったので、念のため。これで義務は果たしたということで。

無我を悟る

今朝 9 時前に目が覚めた。今日は元々、11 時前に外出する予定であり、1 時間もあれば身支度には十分なので、すぐに起床すると、1 時間強の空き時間が生じてしまう。そういうこともあって、あと 30 分〜 1 時間程度二度寝できればいいのになと思って、寝床でごろごろしつつ、他に何もしようがないので、入出息からの身随観をやってみたりした。 十数分経ったのだろうか? 結局、寝入ることはできず、むしろ起床のタイムリミットが近付くことによって、本格的に潜在意識から心が“戦闘モード”となり、「起きてしまおう」という気持ちで染まる。先程の、「二度寝できればいいのにな」という思いが、嘘のようである。 その時、ふと、「これが無我ってことなのか」と思った。まるで炊飯器が予約時間に合わせて、自動で起動するように、精神が周辺の状況に合わせて、自動で変化していく様が、今経験しているこのような心の変化なのだろうな、と。 いや、もちろん、このようなアイデア自体は、別に今回が初めてではない。寒い季節、朝、中途半端に目覚めて寝転んでごろごろしていて、脳体温が下がり、十分に脳に血行が上昇していない状態で、鬱っぽい気分になることがある。しかし、一旦、意を決して起き上がり、シャワーを浴びていると、血圧・脳体温が上昇し、嘘のように、ただひたすら今日一日の行動で心が一杯になって鬱状態が吹っ飛び戦闘モード(躁状態)になってしまっているのである。 ただ、これまでは、1 日 24 時間、1 週間 7 日間、常時が放逸だったので、例えば躁状態になっている時には、鬱状態の自分が思い出せないのである(その逆もしかり)。自分自身のことであっても、現在と断絶している他人事のような視点での知識ベースの比較考察しかできないのである。それは、冬に夏の暑さの気怠さが思い出せないように、逆に夏に冬の身体の縮こまるような思いが思い出せないように、である。 しかし、今朝の場合、その一瞬前の「もう少し寝ていたい」気分と、一瞬後の「戦闘モードが起動されていく」気分の切り替わりに、気付いたのである。だから、それが、まるで、自分(の心)ではなく、心というソフトウェアが、プログラム通りに、条件に従って活動しているだけに過ぎない、という様相(=無我相)をキャッチすることができたのである。 なぜ、キャッチできたかというと、それは 随観 (脇

因・縁と名・色(2)「随観」

「 因・縁と名・色 」という記事を先日書いたが、その内容に関連して、ジャストミートなスマナサーラ長老の Q&A 動画があった → 「 Q05:智慧とは知識とは違うものだと思いますが、もし分けるとしたら、五蘊の働きのどの項目に入るものでしょうか? 」 スマナサーラ長老曰く「世間の自然科学などの知識は“What is this?”、仏教の智慧は“Why am I?”」 言い換えれば、仏教の智慧というのは、「縁」の科学ということではないか? 僕が拝聴して歓喜を覚えたスダンマ長老の法話動画。おそらく人によって、同じ動画を観ても、歓喜を得られるかどうかは違う。それが「縁」というものである。このような「縁」という観点で研究されて、究極的にはお釈迦様は菩提樹の下での悟りまで達したのだとも言えないだろうか? 前の記事で述べたように、この「縁」というものは、名・色の観点で言うと、名の次元。そしてそれは実数空間というこの物質世界に、直交している、虚数次元的なものである。実数平面を無数に貫いているが、一本一本の虚数軸は、実数空間においては、完全に大きさ・幅のない点(0 次元)であるから、直接感知不能。 昔、任天堂の家庭用ゲーム機が出たものの、未だスーパーマリオブラザーズによるブレイク以前の時代。テレビゲームと言えば、ゲームセンターでわずか数分〜十数分のために 100 円を払ってプレイしなければならないアーケードゲームか、ごく一部のマニアしか所有していなかった 8 ビット PC 用の、アーケードゲームに比べれば、随分見劣りのする、PC ゲームしかなかった。 それでも、アーケードゲームの 1 プレイ 100 円という相場が尺度となって、しょぼい PC ゲームでも、それなりに十分な価値はあったのである。またPC ゲームは、アーケードゲームとは違って、プレイに時間制限がないため、アドベンチャーゲームなどという、独自の世界を確立していた。 そのアドベンチャーゲームにしても、昔は、一つの画面を描くために、何度も何度も塗り直したりして、一定の時間がかかっていた。パッと一発で表示されないのである。 それ以前に、FDD(フロッピーディスク・ドライブ)がかなり高価であったため、8 ビット PC の前期は、テープメディアが主体だったのである。一つのゲームをプレイするために、

仏随念・法随念・僧随念(フィクショナル仏教)

自分は仏随念・法随念・僧随念的な一環としての思索行為として、史実としての生身の存在であるお釈迦様(仏)や、その説法記録としての経典(法)、仏弟子たちの伝統(僧)といったものを考えている。そのカスタム版仏教像というのは、伝統的な仏教とはそのままでは相容れないものではあるので、世間的には仏教フィクションと呼ぶべきものだが、いつか何らかの形(小説等)でまとめて発表できればいいかなという程度の考えである。 さて、以前、 スダンマ長老の法話を拝見した感想の記事 の中で、一般の在俗信徒向けの法話では、修行者向けの法を前提とした話をするのは、ちょっとどうなのかなと思うという感想を述べた。これはスダンマ長老のその法話と、スマナサーラ長老の法話とを比較した結果の話で、スマナサーラ長老の長年の日本テーラワーダ仏教協会での活動が、主に、瞑想指導を中心としていることに因んだものである。 自分には、特にスマナサーラ長老を批判する意図は、全く、ない。僕個人は、そのスマナサーラ長老の法話が非常に興味深く、浴びるように再生して繰り返し拝聴している。というか、長老のスタンスというより、協会側の長老に対する要請のスタンスによるものだろうと思う。初代会長の故・鈴木一生氏ら、実際に瞑想修行に興味があった人たちが、スマナサーラ長老に瞑想指導をお願いしたりして立ち上がって行ったのだろうから。 ただ、たまたま、最初に拝聴したスダンマ長老の法話が、非常に穏健な、世俗で暮らす在俗信徒の、世俗での人生を過ごすにあたっての、心構え的な法話であったことから、「ああ、やっぱり、これが、仏教の信を温めるというものだよなあ!」としみじみ感じたのである。スマナサーラ長老が、禅寺での座禅修行ばりに、質問者に厳しい、仏教的な一段高い視点からの警策のような返しを時折される場合があったのと、対照的に感じたのである。 で、実際のところ、出家以外の一般の人間も瞑想修行するという流れは、ミャンマーのマハーシ式の流行辺りから始まって、今の欧米でのマインドフルネス流行に至っているのだと思うので、そういう意味からも、このことをスマナサーラ長老個人や、日本テーラワーダ仏教協会のスタンスだけに帰するのは、やはり無理があるわけである。 そして、なぜ、そこに思い至ったかというと、最近、経典の多読も行っているため、やはり、お釈迦様ご本人が、対機説法